クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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    42 - (6)   2025年秋、懐かしいイルクーツクとクラスノヤルスク
               クラスノヤルスクからイルクーツク
、出国    
                                  2025年9月15日から9月29日(のうちの9月27日から29日

Путешествие в Иркутск, Красноярск 2024 года (15.10.2025-29.10.2025)

 1  9/15
-9/27
懐かしいイルクーツクとクラスノヤルスク 北京経由イルクーツク  ベンチャーロフ家  バイカル湖へ   オリホン島の『ベンチャーロフの館』 バイカル湖岸を歩く 
 2  9/18
-9/19
 キノコ狩り、東岸へ フジール村村長 、ブリヤートの話 『館』のピアノ・コンサート  バイカルのブリヤートの聖なる所  サクロ石の湖岸   元校長宅、バイカルを去る
 3  9/20
-9/21
 ガイダイさん トゥンキンスキー盆地 、ジェムチュグ温泉 アルシャン  ペンション『松林』  ブリヤート・アルシャンのチベット寺院  チェブレーク 、イルクーツクのオルガンホール
 4  9/22
-9/24
 アルカージーさんとイルクーツクの町を クストーヴァさん宅訪問  チーホンの料理、シベリア鉄道  リユーダさん。補償金アスターエフ記念館  クラスノヤルスク発電所  アリーナ、ウスペンスキー修道院、別荘 
 5  9/25
-9/27
 ヴィサコゴールヌィ橋 エニセイスク市  国旗、連邦大学、丘陵公園  バレエ の夜と噴水  軍事学校、キリスト像 川岸通り、エニセイ河川駅『ロシア』 
 6  9/27
-9/29
 レストラン『マルーン』 クラスノヤルスクのシナゴーグ  兵士募集 、『祖国の防衛者の日』 ブフロフの絵画、イル郷土博物館、モスク ブロンシュテインの画廊、オペレッタ  出国  帰国。ロシアは…
 費用

 レストラン『マルーン』
 
ウェイトレスさんの説明を聞く 
 
ディーマ、アリーナ、マトベイ 
 
中近東風のモザイクのトイレか 
 
食べきれなかった 
 
ガラスの向こうではタジク人女性がパンをこねる 
 2時にランチと約束してあったのか、元の川岸通りの駐車場に戻ると、ディーマさんの車があって、アリーナとマトベイも乗っていた。ランチの場所は新装の河川駅の2階だった。外の階段から上って、そのレストランのドアを開けると、恭しく「いらっしゃいませ。外套をお預かりいたします」と入り口に立っている女性(普通はドアマンのことが多いが)に言われた。レストラン・マルーンmaroonと言う。中に入っても、あまりスラブ・ロシアらしくなかった。 
 帰国後ネットで確かめたところ、東地中海から中近東スタイルのレストランで、ロシア著名レストラン運営ノヴィコフНовиков グループが展開する『マルーン』ブランドの一つだそうだ。そして『東のバザール』のような雰囲気のインテリアだけでなく、タジン鍋やパンの生地をこねるタジク人女性がガラス越しに見えたりして、凝っている。広く明るいレストランで、夏場は、エニセイ川を見晴らす眺めのよいテラス席もあるのだろう。子供連れもOKだ。
 ノヴィコフ・グループとは一体何か、帰国後chatGPTで調べてみた。ロシア最大級の高級レストラン・グループの一つで、創業者は有名シェフ・実業家のアルカージィ・ノヴィコフАркадий Новиковと言う。1990年という早い時にモスクワで操業。現在は、グループは海外への店舗も合わせて50店以上。代表的なブランドはノヴィコフ・レストラン・バー『ロンドン(アジアン&イタリアンレストラン、セレブ御用達)』、『ヴォーグ・カフェ』「アイースト」。『マルーン』などなど。
 『これらはチェーンではなくブランド集合。内装デザイン、音楽、照明、接客すべてに強いこだわりを持つ。マルーン・ブランドとしてこのグループは、モスクワ、クラスノヤルスク、タシュケント(ヒルトン系ホテル)に高級レストランが営業している』とchatGPTには載っている。クラスノヤルスクのマルーン開店は2024年110月だとchatGPTが調べてくれた。
 私たち6人には、マルーン式の接客教育を受けたと思われるウェイトレスさんが持ってきたメニュー表はロシア語でも英語でもさっぱりわからない。ロシア料理ではなさそうなのでディーマさんもリューダさんもよくわからない。先ほどのウェイトレスさんに聞いて説明してもらっている。彼女のロシア語は短時間に多くの情報を伝えようと、私には早口だったので、わからなかった。私が注文したのはサラダとカボチャのスープとパンだけだ。孫娘もその程度だった。ディーマさんはメゼ mezzeと言う中近東(?)風の前菜を頼んだらしい(メゼセット)。その前菜だけで6人のおなかはいっぱいになりそうだった。カボチャのスープは大きなどんぶりにかぼちゃだけでなくそれに合う(?)食材もたっぷり入っていて、アジア風の薄いパン(ナン)も添えられている。ディーマさんが注文した方のパンは大きな籠いっぱいに中央アジア風の何種類ものパンの大盛りだ。ロシアで食べたサラダのうちで確かにここのサラダが最もおいしかった。ドレッシングが絶妙の味になっていたのかも知れない。アリーナやマトベイは肉やエビを注文したのでお裾分けしてもらった。
 おいしいものをたっぷり食べて私たちみんなは満腹してしまったので、ウェイトレスさんがデザートはいかがと言ってきたときは、6人とも断った位だ。インターネットのサイトのレビューには『しっかりした値段』と書いてある。
 ちなみにトイレのぞいてみた。ここにも中近東風の色合いのタイルが床や壁を飾っている。トイレの仕掛けは旧式で、勿論温水シャワーもない。
 3時頃にはレストランを出て、ディーマとマトベイは自分たちの車で去って行き、私たちはアリーナとリューダさんの車に乗った。
 シナゴーグ
 
高い建物に囲まれたシナゴーグ 
 
正面入口 
 
 入口左の掲示板
 
 入口右の掲示板
 
スリコヴァ通り65番地。
ウラジーミル・サロメノヴィッチ・ペリエ師
(1917-1993)によって、
クラスノヤルスク・ユダヤ教コミュニティとして、
5751(1991)年復興されたシナゴーグ。
5758(1997)年修復される 
 アリーナは、前述のように学校を卒業すると、進学しないで、ユダヤ系ロシア人男性と自分たちで稼いだお金でイスラエルに行った。クラスノヤルスクにシナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)があるはずだ。彼女はロシア正教徒でもイスラムでもユダヤ教徒でもないが、イスラエルとユダヤ教に興味があると言っていた。イスラムの立派な礼拝堂はチェチェンでいくつも見た。
 ロシアはかつてユダヤ人が多い国だった。今でもコミュニティはある。シナゴーグも見たい、とアリーナにたのんだ。アリーナはたぶん何度も行っている。リュ-ダさんは娘のイスラエル行きに賛成したはずはないから、シナゴーグにも反対だ。あんなところは普通の家と変わりない、見る価値はないとしきりに言う。
 それでも、ほぼ町の中心近くのカーチャ川ほとりのシナゴーグの近くに車を止めてくれた。普通の家と言うほどではないがロシア正教やチェチェンのモスクと比べてずっと控えめな低い建物がそうだった。
 『1998年に建物が再建され、その後、コミュニティ・センターの建物となるシナゴーグの3階建ての増築工事が始まりました。このセンターは 2006 年にオープンし、現在は礼拝場の他、図書館、幼稚園、律法のレッスン、ヘブライ語とユダヤ教の伝統文化を学ぶ教室が入っています』とネットに載っている。
 リューダさんは近くへ行きたがらないのでアリーナと入り口へ回ってみた。この日は土曜日だし、午後だったから、中にも外にも人がいるようには見えなかった。呼び鈴を押すと年配の女性が顔を見せて、今日は入れませんと言った。アリーナが粘ってくれたが、「入口にはカメラがあります。私が規則違反をすると叱責されます」と断られた、ロシアはテロの国だから、狙われやすい施設はガードが堅い。外側の写真だけ撮ってリューダさんの車に戻った。
 帰国後、ユダヤ人について軽く復習した。19世紀末から20世紀初めにおいて、当時のロシア帝国が最も多くのユダヤ人を抱えていた。一部の歴史資料では世界全体のユダヤ人のほぼ半数がロシア帝国に住んでいたとされている(1897年のユダヤ人人口は5,215,805)。当時のロシア帝国は、ウクライナやベッサラビア、ガリツィア、ポーランドなど東欧からバルト3国も含んでいた。中世西欧に住んでいたユダヤ人は宗教的に迫害され、東欧に移動していたのだ。それは、当時強大だったポーランドが招いたからだ。19世紀弱体化したポーランドが、プロシャ、オーストリア、ロシアに分割され、多くのユダヤ人がロシア帝国内に住むことになった。と言ってもユダヤ人の居住地は現在の西ウクライナやガリツィア、ベッサラビア、ベロルシア、バルト3国や、旧ポーランド領に制限されていた。ユダヤ人住民が過半数の町村も多かった。20世紀ロシアの大学に学ぶユダヤ人や政治家(国会議員など)として活動するユダヤ人の割合はロシア人の割合より多かったとある(人口比で)。1917年ロシア革命を指導したユダヤ人は多かったではないか。
 19,20世紀にはロシアでのユダヤ人迫害が有名だ。ポグロムと呼ばれ、『一次世界大戦、二月革命、十月革命、そしてロシア内戦の混乱期は、帝政ロシア特有の反ユダヤ主義が蔓延していた時代だった。ロシア内戦中、ウクライナ、ベラルーシのユダヤ人コミュニティは、これらの地域で最悪のポグロムに見舞われた。ポグロムは、白軍、ウクライナ人民共和国軍、ウクライナの民族主義者。軍閥のアタマン集団、反乱農民、さらには赤軍部隊など、様々な武装部隊によって実行された。旧ロシア帝国全域で記録されているポグロムで31,071人のユダヤ人民間人が殺害され、ユダヤ人孤児の数は30万人を超えた』。
 『1926 年の国勢調査によれば、ソ連のユダヤ人の総数は 2,672,398 人で、そのうち 59%がウクライナ 社会主義ソヴィエト共和国に、15.2%が白ロシアSSR社会主義ソヴィエト共和国に、22% がロシア社会主義ソヴィエト連邦SFSRに、3.8% がその他のソ連共和国に住んでいた』。ソ連のユダヤ人については。レーニン時代、スターリンの作った『ユダヤ民族区(後にユダヤ自治州、極東シベリアの僻地に今でもある、2021年ユダヤ人0.6%)』、第2次大戦前や後、フルシチョフ時代…。アメリアなどへの移住、戦後のイスラエル移住と、ここに書き切れないほどネットには載っている。る。

 一方、『クラスノヤルスクには1800年代からユダヤ人が住んでいた。帝政ロシア時代やスターリン時代はシベリアへの強制移住でこの地に来た側面がある。クラスノヤルスクには木造のシナゴーグが存在していたが、ソヴィエト政権下では解体された。1990年代にユダヤ教コミュニティが再建されはじめ、1994年には礼拝場が確保され、小さなオーソドックス・シナゴーグが設立された。上記のように、現在のシナゴーグは2006年にオープンした。ラビはベンヤミン・ワグナー。宗教的実践だけでなく、ユダヤ文化の継承や、コミュニティメンバー間の交流の場としても重要ななく割を果たしている。』
 実は私にはクラスノヤルスク生まれ、日本の大学で学び、日本人と結婚して女の子が生まれたが、夫と別れて、両親が先に移住していたイスラエルに移ったというユダヤ女性の知り合いがいる。彼女はテルアビブで医師をしている。日本が懐かしいのか、日本関係のビデオをよくWhatsAppで送ってくる。私に電話をかけて日本語で話そうとする。彼女は勿論ハマスには怒っている。
 兵士募集、祖国防衛の日。イルクーツクへ
 シナゴーグからすぐ近くの商店へ行ってお土産を買うことにした。毛糸の帽子という年少の孫娘からの注文があったからだ。同行の孫娘(年長)はそんな注文は無視していいと言ったが、見るだけ見てみよう。結局は同行の孫娘の好みの帽子を買った。自分もはめるつもりだ。代金の2000ルーブルはリューダさんがどうしてもと言って払ってくれた。
 
ショッピングセンター入口ドアに 
 
愛国的タッパーウエアーとマグカップ 
 
出発前に軽食を 
 私が注目したのは、このショッピング・センターの入口ドアに貼ってあった契約兵士募集のポスターだ。車の中からはポスターの写真を何度も撮ったが、こんなに近くにあるとはありがたい。
 『ロシア連邦軍での勤務。特別軍事作戦地域での勤務契約、初年度は4,620,000ルーブルを保証。制服、装備は支給。住宅ローンの返済免除、最大1千万ルーブルまで』とある。
 町や村を通ると必ず見かけるポスターはできる限り写真に撮る。前年のモスクワ、サンクト・ペテルブルク旅行中も今回のイルクーツク州やクラスノヤルスク地方でもそうだ。自治体(州や地方)ごとに金額は違うが、自治体内なら州庁や地方庁所在地でも田舎でも同じのようだ。
 リューダさんのマンションには18歳の長男がロシア軍記念日(2月23日)(*)に贈られた記念品のマグカップがある。若者への愛国をあおる柄のマグカップだ。私たちは3日間の宿泊中(彼らの不在中)に自分たちで朝食など取るときに使ったものだ。反ゼレンスキーの私へのお土産にこんなロシア愛国コップを持って帰りたいものだと、お土産店や食器店を探したが、なかった。(2月23日に近づけばお土産店にもどこにでもたくさん並ぶだろうが。)
 (*)祖国防衛者の日 День защитника Отечества
 1918年2月23日:ロシア内戦中、ソヴィエト政権がドイツ軍に対抗するために赤軍(労働者・農民の軍隊)を創設したとされる日
 1922年には、2月23日は赤軍創設記念日として祝われる
 1946年から1949年までソヴィエト陸海軍の日として軍人を称える日。
 1992年からは『祖国の防衛者の日』として軍人だけでなく、すべての男性を称える日として広く祝われている。3月8日が『国際女性の日』として男性が女性にプレゼントをして祝われているのに対して、こちらは男性の日。女性が男性にプレゼントを贈るなど、「男性の日」的な文化的側面も強くなっている。
 とウィキペディアなどには載っている。つまり、2月23日は軍の創設と国家防衛の象徴として定められ、時代とともにその意味が広がった記念日なのだ。

 車の中でリューダさんが、ウクライナ戦争の原因について、西側がロシアの資源を奪おうとして、仕掛けてきたのだ、と言う。そうだろう、ソ連崩壊で経済も政治も荒廃したすきに、NATOも拡大したし、ロシアに西側資本も入っただろう(国際政治の専門家でない私でも推測)。ウクライナはロシアにくさびを入れるに絶好の場所だったのかも知れない。プーチンはそれを止め、ロシアの国力を図ってきた、今はロシアは安定し繁栄しつつあるとロシア側の報道や書籍は賛美する。後部座席に座っていたアリーナが身を乗り出して
 「外国人にプロパガンダを言ったらだめだ」と言う。ロシアで反政府は若者に多く、政権支持は年配者に多い。リューダさんが自分の主張を強調して娘を黙らせる。
 「西側(の政府も資本家も)はリューダさんの言うようにロシアを弱らせ、ロシアの資源を狙っているのは明らかだ。だがプーチンの独裁と汚職もひどいものだ。プーチンのロシアは安定していて、政権に対して全般的な賛同があると言われているが、プーチン賛美は決してできない。私は言うなれば中立だ。」と答える。
 ウィキペディアの腐敗認識指数では得点最下位(つまり最もクリーンな国)はデンマーク、最上位南スーダンで、ウクライナやロシアは100位以上だ。ロシアでは反政府活動をすると逮捕される。反プーチンの大物は(自殺とか事故に見せかけて)密かに殺される。不正があっても下から(普通の選挙民のこと)は、ほぼ正せない。(日本もそうだが、ただ声を上げても逮捕されない、たまに正せる)

 5時半にはマンションに集まり、軽く食事をして、8時40分発のイルクーツク行きの飛行機に間に合うよう、みんなに別れ、ディーマさんの車で30キロ離れたエメリヤノヴォ空港に向かった。勝手にクラスノヤルスクに孫娘を連れて3泊4日も来て、マンションを占領し、連日車を出してもらって、日本からのたいしたお土産もなく、去るのは心苦しい。出発前から孫娘と話し合っていたのだが、イルクーツクのニキータには、彼が日本へ来たときには返礼ができるが、クラスノヤルスクの彼らが日本に当分は来そうにもない。来ても彼らには今では同郷のビジネス仲間がいる。何年も前に彼らの日本でのビジネスのお世話をしてあげたとはいえ、そのお礼はずっと以前に十分に受け取ったと思う。このままでは心苦しいので、去る前にリューダさんに日本円を渡す。受け取らないだろうが、ディーマさんのビジネスを応援しているから、それに使ってくださいと無理に受け取ってもらった。ルーブルではあまりにあからさますぎるし、ディーマか、彼の会社の技術者が日本滞在中の生活費にできるだろうから。

 飛行機はクラスノヤルスクからイルクーツクまで100分だ。列車では17時間半かかったのに。クラスノヤルスクとイルクーツクの時差が1時間なので到着は23時だ。このS7便は 委託荷物は有料だが機内持ち込みは10キロまで(55x40x23cm)は運賃に含まれている。孫娘のリュックは10キロ以内だが膨れていたので、搭乗手続き中に係員さんが減らしてくれた(私の手荷物に入れた)。
 イルクーツク国内便空港(こちらは新築だが、国際線の方はぞっとするほど古い)に到着すると、ニキータがちゃんと迎えに来てくれていた。
 再びイルクーツク ブフロフの絵画 郷土博物館、イスラム・モスク
 
『エルサレムの丘』という 
 
画廊の2階 
 
画廊の受付、1階 
 
『死のないところには時間もない』85 000ルーブリ
 
 アンガラ川岸
 
イルクーツク大聖堂モスク 
 9月28日(日)。
 またニキータのアパートで目覚める。9時には、ニキータと3人でいつものカフェで朝食を取る。この日の深夜まで、正確には翌朝の0時5分まで、私たちはイルクーツク滞在するが、ニキータは昼頃日本へ発つ。だから私たちを案内できるのは午前中だけと言うことになる。
 まずは歩いてグリャズノーヴァィГрязнова通りのナターシャ・ベンチャーロヴァが運営している『エルサレムの丘』という家に行く。ここは2年前来たときは障害児の私立の学校(施設)だった。今行ってみるとその保護者たちの会の場となっているのか。みんなはニキータにとても丁寧に挨拶していたし、彼と同行した私たちにもていねいだったが、よくわからない施設だった。2階はベンチャートヴィ(夫妻)自慢のホールでグランドピアノも置いてある。ここで自分たちの創作劇をしていると、思う。(それも彼ら一家の趣味の一つだ)。
 健脚のニキータについて、必死になって後についていったが、「もう歩けないよ。ニキータ」とブツブツ言いつつ、歩きに歩いて(30分以内)到着したところは、2年前ナターシャに案内されてきた画廊のようなところだ。ペンション『ニキータ・ベンチャーロフの館』のオーナーのニキータやナターシャとこの画廊のオーナーは親しいのか。芸術の保護者のようなニキータだから画廊とも縁があるのかも。2階は物置のようだ。もしかして売れ残った作品がひとまず置いてあるのだろうか。2年前に見たスターリンとレーニンの小型胸像もあった。
 地階のホールは ブフロフ・ドミートリィийの個展だった。不思議な絵で、題も不思議だ。私たちの他はだれもいない地下室のホールの中を3回ほども回った。題も凝っている。それにぴったりの絵だった。こんな題のこんな絵を描く画家なんてすごい。1階に座っている店員さんによると、ブフロフというのは、入れ墨師だと言う。帰国後、彼の作品(タトゥー)を見ようとネットを開いた。入れ墨は客の注文によるが、絵画の方は彼が自分で書きたいと思うものを画くのだろうか。彼の絵画のような入れ墨はできない。
 この画廊を出ていったんはニキータのアパートに帰る。ニキータは日本へ出発するし、私たちは残るのでニキータは私たちのイルクーツク市内の案内をできそうな知り合いに次々電話をかけていた。ようやく、アリョーナと話がついたらしい。アリョーナは、ニキータのグループの英語通訳として10日後に来日する。また彼女とは2年前英語通訳で来日したときに会ったこともある。
 そのアリョーナが、ニキータのアパートに私たちを迎えに来てくれた。前回、休館だったイルクーツク郷土史博物館にいく。興味深かったのはトファラリТофалары(旧称、つまり他称カラガーシ Карагасы)人の展示だ。東シベリアで最も人口が少なく、現在も彼らは超僻地に住んでいる。
 また、イルクーツクの郷土史の中では中国(清朝)との貿易が大きな意味を閉めるのか、イルクーツク経由の中国貿易の展示も多く、古い地図もあった。国境貿易はイルクーツク南部のキャフタ経由で、イルクーツク市は重要な中継地で商人も多かったのだ。
 ロシアから中国への輸出品は、毛皮だ。毛皮はロシアにとって中国市場ばかりでなくヨーロッパへも高価に取引されていた。他には金属製品などや、ヨーロッパからロシアに入った織物布類を中国に再輸出された。中国からの最重要輸入品は茶。他に絹や陶器類もあった。
 (*)ジョージ・ケナンの旅行記『シベリアと流刑制度』や榎本武揚の『シベリア日記』を読んでも、19世紀のシベリア街道には、東から西へ茶を運ぶ商人たちのキャラバンが、西から東へは流刑者の一団が行く、と書いてある

 1時半ぐらいには郷土史博物館を出て、おなじみの川岸通りを歩く。アルクサンドル3世の像の近くも通る。この日は太陽に向かって歩くと(緯度が高いから太陽高度は低いので)まぶしいくらいの秋晴れの日で、道ばたにはあふれるばかりに黄色い葉っぱの落ち葉で埋まっていた。この散歩中撮った写真は目をつぶっている。
 アリョーナは短時間しか案内ができない。次に変わったのは、アルシャンにも同行したマーシャ(マリーナ・マレヴァノーヴァ)だ。彼女も10日後、ニキータの別のグループの英語通訳者として日本に来る。彼女はニキータから、この日のアリョーナの後のイルクーツク出発までの私たちの案内を任されている。
 イルクーツクにモスクはあるだろうか。勿論ある。その建物はイルクーツク観光地図にも載っている。ロシア連邦文化遺産の中でも連邦規模ではないが、州規模の文化遺産記念物だ。(日本で言うと、重要文化財の次のカテゴリーの有形文化財、都道府県指定文化財に当たるのか)。
 『イルクーツク大聖堂モスクИркутская соборная мечеть は19世紀末に創設された。今の石造りの高いミナレットもあるモスクは20世紀初めに建てられた。1939年には閉鎖され、ミナレットも解体された。1946年には一部で機能。2012年にはミナレットも修復された』とウィキペディアにある。
 気が乗らなそうなマーシャを説得してタクシーを呼んでもらった。彼女はニキータからブロンシュテインの画廊を進められたそうだから。そこもいこう。その先にモスクへ。
 タクシーの運転手も今日は開いていないという。開いていても女性は入れないという。そんなはずはない、チェチェンのモスクでもモスクワのモスクでもサンクト・ペテルブルクのモスクでも、女性用の席があった。
 到着してみるとドアは開いていた。ともかく、のぞいてみた。大きなシャンデリア(光効率の悪いガラスを多く使ったシャンデリアはロシアに多い)とどこかの都市の青いモスクの写真、それに絨毯を敷き詰めた床の他は質素な内装だった。中に一人の男性が壁にもたれて、書物を開いていた。どうしようもないので、その男性に入ってもいいですかと聞いてみた。女性はだめだと言われたが、「日本から来たのですが」と強調してみる。その男性は答えにくそうだった。断るのは簡単だが、ためらわれたのかも知れない。「ちょっと待ってほしい」と言って出て行った。連れてきたのは一般信者でないこのモスクの指導者らしい男性だった。訳を話しても、ためらっているようで、頭にかぶる物がないと入れない。と言う。それはもっともだ。何もないので上着を頭からかぶったらどうかと聞いてみた。変な顔をされたがまあいいと言われて入った。その人はタジク人だという。「ここはチェチェンのモスクのように華麗ではないですが」、と言ってみたが。モスクは祈るところだからその必要はない。と言う返事。しかし、文化遺産記念物ではないか。イスラムについてもっと聞きたかったが、長居をしてはいけないような、規則違反を犯しているような気がして、数分でお礼を言って去った。
 モスクの前でマーシャが呼んだタクシーを待っている間にも、身なりのきちんとした中央アジア系の男性が何人か入っていった。金曜日ではないが夕べの祈りの時間だったのだろうか。
 ブロンシュテインの画廊とオペレッタ『バヤデラ』
 
『ブロンシュテインの画廊』前の道路工事 
ブロンシュテインの画廊 、マレヴァーノヴァと
 
劇場のホワイエ 
 
 オペレッタ『バヤデラ』
 
ニキータ宅の前で、今から空港へ 
 マーシャと『ブロンシュテインの画廊Галерея в Бронштейна』についた。前の道路が工事中でタクシーも近づけなかった。ロシアには(モスクワなどの大都市以外は)まともの道路もあるが、それは一部で、かつてまともだった道路の方がずっとおおい。まともになったことのない道路が最も多いかも。しかも道路工事中となると、日本のように通行人や車に遠慮深くはやらないものだ。
 ブロンシュテインさんの画廊はかれの妻(何度目かの若い妻)が集めた個人コレクションのようだ。ショップもある、カフェもある。数年前ここのカフェでニキータと食事したことがあった。オリホン島で観光業をやっているニキータとブロンシュテインは懇意な仲だろう。この画廊に出店している彫刻家が、オリホン島のあるモニュメントの作者でもあるという。つまり、ニキータも、ブロンシュテインも芸術家のパトロンなのだ。ブロンシェテインさんは数年前にニキータの世話で日本にやってきた。彼らが金沢に来たとき、私は有料で2日間ほど通訳兼ガイド兼運転手をした。
 画廊には個人コレクションと思えないほどの多くの現代作家の彫刻や絵画が並んでいた。ショップも興味深い。しかしゆっくり見ている時間がなかった。6時からイルクーツク州立・音楽劇場(ミュージカル劇場)で始まる『バヤデラБаядера』と言うオペレッタのチケットを、ニキータに買ってもらっていたのだ。一人1,900ルーブル(3500えん)もする。
 マーシャは私たちと劇場には入らないが、オペレッタの終わり頃自分が運転する車で迎えに来るという。昼間は父親が車を使っているが、夜、私たちを空港まで送っていくために車を出してくれるのだ。
 このオペレッタのポスターではインドのプリンスと美貌の女性の写真が載っている。ウィキペディアで急いで探し出したところでは、インドの悲恋物語のようだった。1幕目が終わった頃、孫娘が「思っていたのとは違っていた」とつぶやく。私も同感だった。
 帰国後、ゆっくり「バヤデラ」を調べたところ、これは元々ポルトガル語で「踊る人、踊り子」の意味だ。その言葉が、インドの宗教儀式において神々をたたえるために踊った女性舞踏手としてヨーロッパに伝わり、オペラやバレエ、オペレットになった。私たちが観劇したのは、1921年ウィーンで初演されたイムレ・カルマンによる3幕のオペレッタ『ラ・バヤデール』のロシア語版だった。バレエだったらよかったのに。
 プロットはパリのミュージカル劇場の人気女優とインド王子の愛物語で、この物語はパリの劇場のホワイエですすんでいたと思う(ポルトガル領インドでもない)。オペレッタだからバレエ(踊り)もデュエットも独唱もある。プロットの運びは会話などによる。舞台の上で交わされているロシア語の会話が、私には聞き取れず、だから、そのときは物語の筋立ても理解できなかったのだ。インド風のバレエは見事だったが。
 オペレッタは8時半過ぎ、9時前に終わるから翌日の0時5分発のウラン・バートル行きの飛行機には十分間に合うと言われてはいたが、心配だったので、舞台が完全に終わらず、まだ観客が拍手しているときに、抜け出した。8時半過ぎにマーシャが自分の車で劇場まで迎えに来ると約束していたからだ。ニキータのアパートに帰り、マーシャが苦労して階段途中の鉄格子を開けた。もし開けられなかったら、チーホンの婚約者のマーシャ・カロリコーヴァが来ることになっていた。どちらにしても、その鍵を受け取るために、カロリコーヴァが来る。弟のディーマと一緒に来てくれ、スーツケースを運んでくれた。
 10時前に、マーシャ・マレヴァーノヴァ運転の車で待合室や出入り口ホールがみすぼらしい国際線空港に着く。搭乗手続きが始まるまでマーシャは一緒にいてくれて、孫娘と自分が日本へ行ったときの話を英語でしていた。マルチ・ビザを持った妙齢のマーシャは日本への入国で、夜の商売かと疑われたらしい。
 出国
 問題は出入国検査窓口で起こった。順番は長くなかった。窓口の女性係官は何も言わずに私のパスポートに出国印を押して返してくれたが、私の次に入った孫娘には、「そこで待つように」と言われ、パスポートは返してくれない。入国の時と同じだ。あのときはバーの外側(つまり入国前)で待たされた。今回はバーの内側、つまり空港の待合室側で待たされたが、パスポートは返されないから、出国印を押して返してくれるまで待つしかない。パスポートを受け取り、無事通過できた私も、彼女を置いて先に(搭乗待合室へ)進むことはできない。出国審査窓口の内側にある椅子に座って私たちは待っていた。窓口の審査は、次々に進んでゆく。しかし終わりにならない。次々と順番ができるからだ。私は、私の審査をパスして次の孫娘の審査をパスしなかった係員の窓口へ行って「どうしたのでしょうか、彼女は私の孫娘なのですが」と何回も、彼女の仕事の邪魔をして訴えた。「待て」という返事のみ。次々と出国者はパスポートを渡し出国印を押してもらって通過していき、時間は刻々と過ぎる。
 「私は一人で出国するからあなた(孫娘)はここに残って」と真顔で言うと、彼女の顔色が変わる。私は調子に乗って「イルクーツクに残ってチケットを買い直して出国するんだね」と言うと、ますます彼女の顔がこわばる。子供をからかうのが好きなよくない趣味の私は悪乗りして「もし新たなチケットを買って出国しようとしても、またストップされるよ。そうしている間にビザが切れるよ。不法滞在で逮捕されて監獄行きだね。ロシアの監獄からは生きて出られないぞ」とまで聞いた彼女は冗談を言われていると気づいたらしい。
 私たちの横にいつの間にか男性が二人立っていた。中国人かモンゴル人かわからない。「ウラン・バートル?」と聞いてみる。「北京」という返事。北京行きはウラン・バートル行きの次に飛ぶ。順番はもうそこまで来ているのか、と慌てた。彼らは私が日本人とわかったと見えて、自分たちもストップされているのだと言う。
 もう一度、窓口の係官女性に、「飛行機に遅れてしまいます」と訴えた。しばらくして呼ばれてパスポートが渡された。その後、北京便の彼らも呼ばれたようだ。搭乗待合室にいる彼らを見かけた。孫娘は、「自分たちはずいぶん待ったのに、待たされ組の後から加わった彼らが自分たちのつぎ呼ばれたなんて不公平だ」と言っていた。
 ウラン・バートル行きだろうが北京行きだろうが、2022年以降この出入国窓口を通る非友好国人(例えば日本人)はみんなこうしていったんはストップされるのだろうか。とすれば、私はなぜ普通に通過できたか。それとも彼らの職務マニュアルにでも何歳から何歳までは詳細に調べなくてはならないからストップとでも書かれているのか。しかし、今更何を詳細に調べるのか。調べるのなら私の方が怪しいのに。
  ウラン・バートル国際空港。帰国。ロシアは
  ウラン・バートルとイルクーツクは時差が同じで、到着したのはイルクーツク出発の同日の01:00という深夜。2年前有料ラウンジで休んだら快適だった。北京のホテルより便利だと思って、勝手知ったラウンジのあるウラン・バートル経由にしたのだ。飛行機が到着するとまっすぐラウンジへ向かった。無人で男性の受付が一人いるだけだった。2年前より、日本円では値段が上がっている。ホテルより安いし、空港内だから安心だが。3時間4000円くらいで私たちは6時間予約した。本当は5時間でもよかったが、1時間ごとの使用料はないそうだから。2年前はサンドイッチやデザートなどがたくさんあったが、今はあまりない。それでも電子レンジでお弁当を温めて食べて、毛布の貸し出しを頼んで、長椅子に横になって寝る。
 成田行きのMIATモンゴルエアライン航空は07:45発だ。2年前は10時頃だったから、空港の四方に開けた窓からモンゴル草原(砂漠)が見晴らせた。今回は急いで登場したので孫娘に「ほらね」と、と示さなかったのが残念だ。
 時差が1時間で、成田には13:40に着いた。

 今回のクラスノヤルスクは一段とインフラが整っていた。人々は普通に安定して生活して、戦争の影も見えなかった。イルクーツクのインフラ整備はクラスノヤルスクほどではない。
 イルクーツクではブリヤートに近いせいか、契約兵士の話は、ちらほらきこえてきた。が、2023年のイルクーツク・クラスノヤルスクの旅行の時よりもっと、戦争の影は見えなかった。しかし、誰もが(私が尋ねた限りだが)、自分の親戚(遠いか近いか)や知人(親しいか疎遠か)が戦場に行っていると言っていた。イルクーツクでは、仕事がないから応募したらしいよと答える人もいた。夫が戦死したという人もいるが、補償金はすぐには出ない、順番待ちだという人もいる。政府のプロパガンダに、それはプロパガンダだと言って、雇い止めになった人もいる。
 将来のロシアはどうしたいのかと若者に聞いても、答えはなかなか返ってこない。ナヴァリヌィが殺されないで選ばれたらよかったという若者もいる。しかし、選挙は公正でない。プーチンしか選ばれないようになっている。それに、ナヴァリヌィは実力不足だと私は思うが。それに彼の寡婦がバイデンとハグしている写真を見て、たとえ公正な選挙が行われていても彼はロシア連邦大統領には選ばれないだろうと思ってしまった。
 プーチンが生きている限り、変えられないというロシア人が多い。ではプーチンの次は?メドヴェージェフと答えた青年に、理由を聞くと、今メドヴェージェフは過激な親プーチン的な発言をしているが、それは実はふりをしているので、彼が大統領だった時期(2008年から2012年のプーチンが首相だった4年間)メドヴェージェフはリベラルな政治姿勢を示していた(グルジア戦争の他は)。大統領引退後、リベラルな政治姿勢から一転してタカ派に転向しているのは、それは、プーチンを支持していると見せかけるためかも知れない、と言う。
 メドヴェージェフに少しは人気があったかも知れないが、当時、ナヴァリヌィがメドヴェージェフの私宅・宮殿を暴いていた。写真では帝政時代の大貴族の離宮のようだった。これで人気は落ちたとか。
 クラスノヤルスク地方やイルクーツク州、2024年のモスクワやサンクト・ペテルブルクでは、私の見た限りでは、人々は安定して暮らしていた。豊かに暮らしていた。誰がロシアで住みよいか。『軍需産業の上部者』という答え。それならアメリカでも日本でも世界中でそうだろう。ロシア人はロシアが住みにくいと思えば、出国できる(ウクライナはできない)。日本のメディアで報道されているほどロシアは苦しんではいないし、ウクライナは愛国者がそろってはいない。

 今回の旅で私はアルシャンとヴィソカゴールスキー村の他は新しいところへは行かなかった。同行の孫娘にとってはすべてが目新しかったはずだ。世の中、すべてが日本のようではないとわかっただろう。それを横で見ているのも楽しかった。イルクーツクのニキータたちもクラスノヤルスクのリューダさんもできるかぎり私たちを接待してくれて、大感謝。
  費用
 eビザ取得料 8010円
航空券代 関西空港から北京首都空港  15,000ルーブル
       北京からイルクーツク 26,750ルーブル
       クラスノヤルスクからイルクーツク 17,192ルーブル
       イルクーツクからウラン・バートル、ウラン・バートルから東京 40,32ルーブル
シベリア鉄道 イルクーツクからクラスノヤルスク 6,362ルーブル
以上ルーブルを円換算で165,581円
国内列車代 9/15金沢から関西空港 10,430円
        9/29東京から金沢17010円
宿泊 9/15関西空港 ツインだから半額6000円
    9/29ウラン・バートル有料ラウンジ 6時間 7801円
その他 北京国際空港でカフェ、1693円
イルクーツクでニキータに両替 5000ルーブル
お土産 関西空港で化粧品 14000円
      出発前 味噌スープ、菓子、箸など 約2000円
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