up date | 2003年8月28日 | (追記: 2006年6月6日、2008年6月23日、2014年3月26日、2018年12月12日、2019年11月14日、2020年7月22日、2022年3月14日) |
モスクワからペルミ市へ 6-2 ヴォルガ川とカマ川クルーズ(その2) 2003年6月28日から7月13日 |
Круиз по Волге и Каме (c 28 июня по 13 июля 2003 года)
2.ヴォルガ川を下ってカマ川を上る |
出発の北モスクワ河川駅は、モスクワ市の北のはずれにあり、そこは、もうモスクワ川ではなく、モスクワ川とヴォルガ川をつなぐモスクワ運河の左岸にあります。出航後その運河を遡りつつ、6つのダムを通り抜け、ヴォルガ川に出ます。
念願のモスクワ運河は、革命の後、スターリンが、囚人労働をふんだんに使って完成させることになるのですが、『1932年6月1日から建設がはじまって、たった4年8ヶ月で完成させた。モスクワ運河より44キロも短いパナマ運河の方は完成まで30年もかかったのだ』と自慢しています(両運河は自然条件が異なるばかりでない)。運河はソ連が自前で作りました。つまり材料も資金も技術も国内調達で間に合わせたわけです。もちろん最新式機材はなく囚人の『無賃労働』の人海作戦と、建設のために『特別注文』で逮捕した特殊技術者を使って建設しました。多いときは20万人も働かされていたそうです(過酷な労働とそれによる病気で、公式でも2万2千人が亡くなったと言われる)。1933年5月に完成したバルト白海運河の従事者をそっくりモスクワ運河建設に回し、完成後は刑期前釈放するからと言って、働かせたそうです。確かに刑期前釈放されたり、報償までもらったりしたそうですが、その後またすぐ『人民の敵、祖国裏切り』罪で逮捕されて、次の建設現場に回されました。『人民の敵の妻』罪とか、『祖国裏切り者の家族の一員』罪とか『西側文化を賞賛した』罪とかもあります。
地図で見ても、モスクワ川とヴォルガ川の間が一番狭くなったところに、全長128キロのモスクワ運河が作られています。二つの川の間の距離は短いですが、間に丘陵があります(両河川の間に分水嶺があるのは当然)。ですから、ヴォルガの水をモスクワ川に流すために、運河を掘るだけでなく水位をあげるためのダムや船舶を通過させるための閘門(こうもん)をつくりました。 まず、ヴォルガの水を運河の方へ分流する地点にあるドヴィナ村のあたりに、大きな第一ダムを作り、ヴォルガの水をせき止めました。この高いダムのおかげで、ダムの上流側の水位は海抜124メートルまで上がり、大きなダム湖(貯水池)ができたわけです。そのダム湖の水が運河に流れ込むことになり、順番に第2ダム、第3ダムと通るうちにさらに水位が上がっていきます。丘陵が高くなっていくからです。ヴォルガの水を低いところから高いところへ流さなければなりません。ダムごとに強力ポンプがあるそうです。 第6ダムまでに、順番に合計38メートルも水位が上昇して、海抜162メートルとなります。この第6ダム湖の左岸が、私たちの出発した北モスクワ河川駅です。スターリンは運河を作ると同時に、高い尖塔のあるスターリン式建物で有名な北モスクワ河川駅も作りました(写真は前ページ)。この第6ダムのあたりが一番高い丘陵になっていて、そこを過ぎると第7、第8ダムを経て海抜126メートルのモスクワ川へと水位が下がっていきます。(私たちのクルーズは第6湖から第1湖へのコース) 資料によると、ヴォルガから運河を通して引いてきた水の45%はモスクワ市の水道へまわされます。それは、モスクワの生活用水の3分の2にあたります。8%は閘門で船を上げたり下げたりするための水、5%は蒸発したり水道水用に浄水するときに捨てられるそうです。そして残りの42%は市中を流れるモスクワ川に流れて行き、水量を豊富にします。今流れているモスクワ川の水量のたった1割強程度が本来のこの川の水で、あとはヴォルガからもらった分です。水量が豊富だと、衛生上もよさそうです。
この運河ができたため、モスクワからヴォルガへの大型河川交通が可能になり、ヴォルガの河口からカスピ海へ出られるばかりではなく、ヴォルガと結ばれた諸運河を通り、バルト海、白海、アゾフ海、黒海へと出ることも可能になりました。 モスクワを出発してヴォルガへ向かう船は、モスクワ運河を(人工の)流れではさかのぼりますが、(自然の)地勢では下がっていきます。出航後まもなく、まず第6閘門に入ります。入ると後ろの水門が閉まり、水が抜かれていきます。船が安定しているよう特別な杭にロープを舫(もや)います。水が抜かれ、水位が下がり船も下がっていくと、その杭も船と一緒に下がっていきます。閘門の出口の水門の向こう側と同じ水位まで下がります。 何メートルも下がるので、入ってきたときに見えた景色はずっと上の方で見えなくなり、周りは運河の石壁ばかりです。船ごと大きな井戸の底に入った気分です。水位が下がりきると、やがて前方の水門が開いて井戸の底から広い世界に出ます。次のダム湖(貯水池)です。しばらく航行していると、第5閘門に入り、同じことをくり返します。次は第4閘門です。やがて夜もふけ、眠くなって寝ました。起きた時は、もう広いヴォルガへ出ていました。
「一杯やると暖かくなる」といわれ、彼女の船室で、朝から一緒にブランデーを飲みました。そのうち、船のエンジンがよく動くようになったのか、その熱のおかげで、船室内は暖かくなりました。甲板はヴォルガからの風で相変わらず寒く、厚着をしなければ出られません。 その2日目はウーグリッチ市観光でした。案内されたのはウーグリッチ・クレムリン内のキリスト変容聖堂 Спасо-Преображенский собор(1713)で、素晴らしい聖歌合唱を聞き、つぎのアレクセイエフスキィ女子修道院(1371年創立)など、ロシア語の説明がわからないまま見物。 (後記:現ウーグリッチ・ダム湖の辺に建つ ウーグリッチ市 Угличは人口3万8千人。モスクワの北200キロ。1148年の文献に初出。『モスクワ・ゴールデン・リングの一つ。リュ―リック朝唯一の後継者であるイヴァン4世の子ドミートリ―が殺害されたなど、血なまぐさいロシア史によく登場する)
3日目はヤロスラブリ、コストロマと続きます。波止場に着くと、乗客はみんな上陸します。船の甲板を歩くのも飽きて陸の上を歩きたくなるからです。この程度のモスクワ近郊観光地ですと、たいていの乗客は、何度も来たことがあるそうで、特にガイドつき市内観光に参加しないで、自分たちで好きなところへ散ってしまう人もいました。「おしきせ」観光希望者の方は2グループに別れてガイドを先頭に出発します。私も去年の冬、「モスクワ・ゴールデンリング」で見物したことはありますが、一応グループの後について、教会、修道院、博物館、城壁、また、教会、修道院といったところを回りました。お遍路さんのようなものです。ガイドは、もちろん、ロシア語で説明をしますし、その場で聞き返しも質問もちょっとできませんから、その教会の由来や、壁画の意味などよくわからないこともありました。それは、冊子なり、本なりを買っておいて、後で読めばいいことです。 (後記:コストロマ市に近づくと市中央公園にあるクレムリンが遠くて見えなくとも、そのクレムリンの聖堂内に立っているレーニン像はヴォルガからよく見えます。ヴォルガからの写真も撮り、上陸して公園に行った時、典型的なレーニン像、つまり、プロレタリアの指導者で、右手を上げ演説するレーニン像 (左手はズボンのポケットに)の写真も近くで撮ったのですがうまく撮れていないのでウィキの写真を載せました。しかし、実は2002年『モスクワゴールデンリンクのタブ』でも私はその写真を撮っていたのだ。) (後記;クレムリン内の聖堂に、1913年ロマノフ朝300年記念碑を建てるための台座が完成した。300年の歴史だから、創始者をはじめ26人の歴史上の所要人物の像と活躍の場面が36メートルの高さのピラミッド状に聳えるはずだった。設計図はできていて、材料も運び込まれていたが、ロシア革命のため中止。クレムリン内の全聖堂は革命後の1929年に閉鎖。1934年には撤去された。その場所は中央公園となり、1928年、その台座には巨大なコンクリート製のレーニン像を建てた。1982年傷んだコンクリート製に換えてブロンズ像を建て、現在(2020年)も聳えている。一方、2019年一部の聖堂は修復されているが、ロシア正教会(政府も)は、元のクレムリン聖堂群のあった場所に大聖堂を建てる予定だそうだ。) ヤロスラヴリもコストマも、ロシア中世史(モスクワ大公国史)には必ず言及される有名な町なので、歴史的な記念物が多い。ソ連崩壊後修復されつつある。 2003年当時は修復中の聖堂なども、その後完成し、観光客も多い。1000年の歴史を持つ文化都市のはずだが、ソ連時代から工場町でもあった。日本の企業もある。2010年には小松製作所の建設機械(採掘機)組み立て工場もできた(後記)。 町見物にガイドとグループで出かけていても、時々、最後に回った修道院などで、 「グループは解散、後はご自由に町を回り、4時までに船にお帰りください」ということもありました。そうなると、私のような一人旅者は決まった連れがいないので、迷子にならないよう、だれかとくっついて歩くようにします。その頃には、レストランのテーブルが同じマルクとアンナとサーシャの他にも、心臓内科医(女性)や歯科医(女性)やエンジニア(女性)などの同じく一人旅者や、熟年夫婦連れのロシア人など、ほとんどの乗客と仲良くなっていました。
「あなたのご主人様のお名前は何とおっしゃるのでしょうか」と尋ねました。 「主人ですって?ホッホッホ、息子ですよ、息子」という答えです。ほかの乗客の熟年女性たちはジェーニャのことをマザコンだと言っていました。確かに、長いクルーズの間、彼が母親以外の乗客と話している姿はまれにしか見ませんでした。でも、彼は詳しい地図を持っていましたし、サーシャと違ってわかりやすいロシア語でクルーズやモスクワのことを話してくれ、乗客の中では最も感じのよい人だったので、私はよく彼に話しかけました。
(追記 曲がったテレビのアンテナみたいな格好の金の十字架が立っていると言う人もいますが、ロシアでよく見かける十字架の一つ、八端十字架。六端十字架もある。ギリシャ十字架や、ラテン十字架も見かける)。 スターリン時代、教会の建物は別の用途に使われたり、改造されたり、破壊されたり、放置されたりしたのですが、最近は修復され始めています。集落や教会が見えると、ジェーニャのところへ行って、今、どの辺なのか、地図で教えてもらいます。 行っても行っても、村や町の姿が見えないところもあります。森や草原がどこまでも続いています。電柱のようなものが見えたり、川岸に停泊禁止マークがあったりするだけでも、ジェーニャはここがどの辺か、見当がつくようです。 このあたりのヴォルガはとても広く、流れが緩やかなので、大陸の大河と言う気がします。しかし、実は、ヴォルガの流れは昔の形をそのまま残しているわけではないのです。ヴォルガ川には至る所にダム、ダム湖、閘門があります。ヴォルガを航行しているのではなく、長いダム湖から次のダム湖へ、と進んでいるようなものです。それで、いつでも川幅が広いのです。今見える川岸は、昔は川からずっと離れた丘の上だったというところも少なくありません。ダム湖に水没した村も多くあります。村は水没しますが、村の一番目立つ高台にそびえていた教会だけは、水上に残ります。ダム湖の中ほどに廃墟になった教会がぽつんと突き出ている光景は、ソ連時代の『怪奇』さの一つでしょうか。
閘門に入ると、まず入ってきた方の後ろの門がシャッターのように、水面下からするすると上がってきて、仕切りができます。次に、一気に水を抜いて、出口の向こう側の水位と同じにします。同じになると、出口の観音開きの門がぶわあんと開きます。開ききると、信号が緑になり、杭からロープを抜いてすぐ出発です。早い時は30分で通過できます。 ヴォルガのどの辺にあった閘門だったか忘れましたが、水位が下がっていき、水にぬれた壁がぐんぐん現れて、とうとう20メートル以上も下がったことがありました。閘門の上に橋がかかっていることがあります。通行人が、私たちが下がっていくのを上から見ています。下がって下がって下がって20メートルも下がった時には通行人は本当に小さく見えました。 閘門と言うのは、つまり、モーターではなく水位で上下させるエレベーターと思えばいいでしょうか。 閘門の前で順番待ちということもあります。でも、客船は優先されるようです。 クルーズ中、何度閘門に入ったか知れません。私たちが寝ている間も入ったでしょう。そのうち、水にぬれ、コケの生えかけた荒い壁が、水位が下がるにつれて少しずつ現れてくるというのにも飽きてきました。30年代に囚人たちが突貫工事をさせられてできたという閘門はともかく、後年になってできた閘門も、味気ないコンクリート壁だけです。それも、表面は欠けたりはがれたりしています。船が杭に舫う時、ぶつけてはがしたり、長い間の水の浸食で凹んだりしています。すぐ目の前のコンクリートの小石が、剥がれそうだったので、私が指で剥がそうとしていると、背が高くて手も長いジェーニャが、ひとかけら剥がしてくれました。記念に、家に持って帰りました。『ヴォルガの閘門の壁石』です。 「こんなに広くて大きくて、みんなから見られている壁があるのに、この水ゴケでは、もったいないねえ」と、ジャーニャに話しかけました。 「ここに、大きな美しい女性の姿を描いて、水位が下がると少しずつ見えてくる、というようにしたらどうかしら。芸術的裸体と言うわけにはいかないでしょうけど」というのが私のアイディアです。想像力の乏しいジェーニャは、耐水性顔料の調達のことでも考えていたのかもしれません。 「そんな予算はないだろう」と言うような返事です。 「では、コマーシャルでも描いたらどうかしら。広告代は入るし、それで、通行する船の閘門使用料も安くなるかもしれないわよ。」すると、横で聞いていた熟年女性が、 「まあ、コマーシャルなんて、あれだけテレビでやっていて、もうたくさんだわ」と反対しました。ソ連時代にはもちろんなかったテレビ・コマーシャルが、このところ無制限に増えてきたのが不評です。あまり洗練されていないただ繰り返しの画面が多い退屈なコマーシャルばかりです。でも、高さ10メートルから20メートル以上もあって、幅は200メートル以上はある閘門の左右の壁に、ミズゴケの生えかけた荒い壁ではなく、せめて、何か、周りの風景を損なわない程度の、ワンポイント・イラストでも描いてあったら楽しいのに。『熱帯魚』閘門とか、『北氷洋ペンギン』閘門とか、『ヴィーナスの誕生』閘門とか、『ブルーベリーの森』閘門とかそれぞれ愛称ができて、「次は何だろう?」と、クルーズ客にも好評になると思うのですが。『ロシアの勇者』閘門だけはない方がいいですが。
「美しい自然を撮るのならわかるが、なぜ、橋なんか撮るのか。昔は、閘門も撮影禁止だったのよ。たとえば、去年、バルト白海運河を通った時は、戦略的重要建造物は撮影禁止と言われたわ。橋も、空港も、駅も基本的に撮影禁止よ。あなたのようによく写真を撮っている人は、スパイの可能性すらもあるわ」と真顔で言われました。
十数年前までは、私のような物見高い外国人は疑いの目で見るような雰囲気があったかもしれませんが、今でも、こういうことを言う人がいるとは意外でした。この船の乗客は、保守層が多いようですが、それでも、『スパイ物語』はもう冗談でしか話されていません。ちょっと気を悪くした私は、それ以来、ジェーニャに話しかけるのを遠慮し、ワーリャには廊下であってもこちらから挨拶しなくなりました。 橋は、もちろん撮影禁止ではなく、何枚撮ってもいいので、サーシャやアンナに頼んで、橋を背景に私を撮って貰いました。ワーリャの見ているところでも、わいわいきゃあきゃあと騒いで撮って貰いました。 そのうち、ワーリャが 「何か、気に入らないことでもあったのですか。挨拶をしていただけなくなりましたね」と言ってくれたので、喜んでその和解に応じました。
少し離れた郊外の森の中には「聖なる水の教会」があって、乗客は、その水を持って帰るために、ペットボトルを持参していました。私の知り合いのロシア人たちは『聖水』好きです。その泉に潜るとご利益があるそうで、水着持参の乗客もいました。森の中の湿った場所だったので蚊が多かったです。 ゴロデーツ市の何よりすばらしいところは、川岸からはるか下を流れる広いヴォルガが見晴らせることです。左岸にあるゴロデーツ市から、対岸へ巨大なダムができています。対岸にあった寒村は新興工業都市になり、ゴロデーツは歴史観光都市として残りました。この地点でヴォルガの水をせき止めてできたのがゴーリキー・大ダム湖です。 (後記;ゴロディーツ市は人口3万前後。12世紀後半、ヴォルガ・ブルガールの襲撃からウラジーミル・ルス(中世ロシア侯国の一つ)を守るためにできたそうだ(その逆かも知れない)。1263年、モンゴル時代のアレクサンドル・ネフスキーがここで没した。最も見晴らしのよい『革命川岸通り』には、1992年アレクサンドル・ネフスキーの像が建てられた。 アレクサンドル・ヤロスラヴィッチ・ネフスキー(1220−1263)は、ノヴゴロド公(1236-1240,1241-1252,1257-1259)、ウラジーミル大公国の大公(在位:1252年 - 1263年)だった。ロシア史のどんな教科書にも登場する中世の英雄。ロシア正教では列聖されている。モンゴルのルーシ侵攻(1237−1240)では、バトゥ軍はノヴゴロドには侵攻しなかった。ジュチ・ウルスの時代、モンゴルとの臣従関係を保って(利用し利用され)、ドイツ騎士団(チュートン騎士団、プロイセン領有)やスウェーデンと戦った。スウェーデン軍とノヴゴロド公アレクサンドルがネヴァ河畔で戦い民族的勝利を得たのでその名(ネフスキー)がついているが、その『ネヴァ河畔での戦い』だけでなく、彼が勝利したという『氷上の決戦』も歴史的には実は、疑問。ロシアの愛国教育には重要人物。
(*)ニジニ・ノヴゴロドの人口人口3位だったのは20世紀中頃のこと。2020年は125万人。モスクヴァ、サンクトペテルブルク、ノヴォシビリスク、エカテリンブルク、カザニに次いで第6位、上位5市が10年間で10%増に対してニジニ・ノヴゴロドは0.01%減。しかし、ニジニ・ノヴゴロド圏は200万人とされる。ロシアに100万都市は15ある。(後記)ソ連時代は、1932年から1990年までゴーリキー市と呼びました。1959年から1991年までは立ち入りに許可が必要な閉鎖都市でした。軍需産業都市でもあったので、外国人は不可だったのです。それで、外国人用ヴァルガ・クルーズは、ニジニ・ノヴゴロド岸を通るのは必ず夜間で、上陸はもちろんしません。1970年のこと、原子力潜水艦の部品を作っていた工場で事故が起き、12人が即死、多くの人が被曝したとか(ウィキから、後記)。 現在は乗客は下船し、ニジニ・ノヴゴロド氏の観光をします。でも、プログラムでは滞在時間は4時間でした。いつものことですが、前半はバスでグループ観光、後半は自由時間です。バスでまわったのは、ゴーリキー記念館や、ニジニ・ノヴゴロドのクレムリン、町一番の繁華街などです。 途中バスの窓から、ガイドに、 「左に見えるのは、日本文化センターの建物です」と言われた方向を見ると、『日の丸』印がありました。何人かの乗客が 「ほら、あの建物ね」と言って私の方を見て微笑してうなずきました。ニジニ・ノヴゴロドのような130万人の大都市には、クラスノヤルスク市とは違って、大使館も広報活動に力を入れているのでしょう(と思いました)。 ゴーリキー記念館では、ガイドにマクシム・ゴーリキー(1868-1936)とその息子の『謎の死』について質問している観光客もいました。それは、国民に人気の高かった作家ゴーリキーの一人息子がまだ30代の時に急死したのは、医師がスターリンの指示により死なせたのではないかというものです。ゴーリキー自身も病気になった時、医師が死ぬのを『助けた』といわれています。それら医師はクレムリン付き医師でした。クレムリン付きの医師にかかって『急死』したのはゴーリキーの息子だけではなく、フルンゼなど当時の有名人がたくさんいたそうです。今でも、それら『謎の死』ついては多くの本が出ていて、ロシア人ならだれもが知っているようです。いろいろな説があるのですが、殺害説の可能性は大きいと思います。 後記:1918年から1986年まで社会主義リアリズムの創始者ゴーリキーはトルストイとプーシュキンに次いでソ連邦で多く出版された作家だった。ゴーリキーは1902年に代表作『どん底』を発表。
後記:チカロフの階段Чкаловская лестницаと言う。旧市街のクレムリンの近くに建つチカロフ記念像から川岸までの560段の階段でロシアで最も長い。事実、第2次大戦のドイツ人捕虜の労力などで1949年に完成。ヴァレリー・チカロフとは1937年モスクワから北極点経由バンクーバーまで63時間の無着陸飛行(当時の世界記録)したソ連邦英雄。ニジニ・ノヴゴロドはヴォルガとオカ川の合流点にあります。(チカロフの階段は合流点よりやや下流のヴォルガに面している)。オカ川をさかのぼっていくとモスクワ川に出ます。ですから、昔の河川運行と言えば、モスクワから、水深の浅いモスクワ川を通り、オカ川経由でヴォルガに出ました。今でも、小さな船なら、この南回り経由で航行しているそうです。 自由時間、他の船客は商店街でウォッカやおつまみの買い物をしていました。私はと言えば、一人でニジニ・ノヴゴロド河川駅の近くの川岸通りを散歩して夕日を眺めていました。
ヴォルガ中流には、チュヴァシ人やヴォルガ・タタール人、バシキール人などのチュルク語系民族のほか、ウドムルド人、マリ人、モルドヴィンмордва, мордвин人などのフィン・ウゴル語系民族などが住んでいて、16世紀頃になってモスクワ公国(後のロシア帝国)の一部となり、ソ連時代は一応それぞれの(民族)自治共和国を作っていました。それ以上、チュヴァシについては知りません。超多民族国家ロシアですが、チュヴァシ共和国について書いた本は、遠くシベリアの私の住むクラスノヤルスクの本屋には普通売っていません。チュヴァシ共和国の首都チェボクサリなら売っているはずです。売っていそうなところにきたら、教えてくださいとガイドに頼んでおきました。ちゃんと、郷土博物館で『チュヴァシ民族の歴史と伝統文化』と言うカラー版の頼もしい本が90ルーブル(360円)で売っていました。チュヴァシのことはこれでオーケーです。
それまでは、寄港地で、お土産と言えば、荷物を増やさないため、せいぜい薄っぺらな観光パンフレットしか買ってこなかった私ですが、この頃から、その町について書いた本を買うようになり、あとで、本がぎっしり詰まった重いかばんに苦労するようになるのです。
(後記:ウィキペディアによるとエラブガ Елабуга(タタール語ではアロブガ Алобугаは11世紀の初めごろ、ヴォルガ・ブルガールの辺境の町として、城壁が建てられたそうだ。それは現在『悪魔の塔(エラーブガ城跡)』と呼ばれて観光名所の一つだ。交通の要所でもあったので商人が多く住んでいた。帝政時代はロシアでも長者の商人が多かったとか。そういえば、イルクーツクの私の古い友達のバイカ湖オリホン島のニキータの妻の母親は、エラーブガの大商人と貴族の娘の孫だという。もちろん革命後粛清された。)
「ツヴェタエヴァを日本語に訳した日本人が、去年記念館を訪ねて来た」と言っていました。また、ここに戦後強制抑留されていたという年配の日本人が、夫婦で訪ねてきたこともあったそうです。 (後記:第2次大戦時、捕虜収容所があった。戦後、日本人抑留者の収容所があった。2000年、日本の厚生労働省により慰霊碑が建立された) 「そんなお年の方にはとても見えなかったわ。それにしても、日本人の方は皆さんお若いわね」とお世辞を言われました。私は、そのガイドが出会った3人目の日本人です。 ツヴェタエヴァは、エラーブガに到着後数日(1941年)で自殺するのですが、これも、スターリン時代の悲劇のひとつです。ガイドがその間の事情を説明していました。墓地にも案内されましたが、推定埋葬場所です。 エラーブガには、19世紀の著名な風景画家シーシキンの記念館、ナポレオン戦争に男装で参加したロシア初の女性将校ヅローヴァНадежда Дуроваの記念館のほか、三日月の尖塔のあるイスラム寺院も多いです。 ロシアに住んで長いですが、初めてイスラム寺院の中に入ってみました。頭はかぶり物で被わなければなりません。ロシア正教の教会と違って、聖人達の肖像画(イコン)もなく、床一面にじゅうたんが敷いてあるだけというのも、礼拝所として悪くありません。 でも、クルーズ同行のロシア人達はそうとは思わないようです。船客の中に熱心なロシア正教の信者のおばあさんがいて、なぜ、10世紀末にロシアがイスラム教やローマ・カトリックではなく、ギリシャ正教を取り入れたのか、私に説明したがリました。そのおばあさんによると、ギリシャ正教の寺院は、外装も内装(イコンを含む)もきらびやかで人々を引き付けることができるからというのも、1つの理由だったそうです。 出口に売店があり、『一夫多妻について』と言う本を買いました(30ルーブル)。「一夫一婦制で妻が夫を独占しても何もよいことはない」と言うような内容のロシア人女性の手記集でした。『イスラムの長所』という冊子も売っていました。どちらも、100円くらい
一人旅で、エネルギッシュな中間管理職タイプの熟年女性ターニャだけは、郷土博物館(これがロシアの町ではどこも第一級の名所とされる)を自力で訪ね当てて、見学できたそうです。私も小さな町で迷子になりそうもなかったので、一人で歩き、本屋へ3軒寄ってサラープルとウドムルトの本を買いました。どの本屋の店員も親切で、私の探している本をいろいろ出してきてくれたり、ない場合は、ありそうな他の本屋の場所を教えてくれたりしました。船の運航の都合で寄港しただけのサラープルには、はじめからあまり期待していなかったのですが、『私たちの町、サラープル』と言う子供向きで読みやすい本が見つかりました。 その本によると、ここは、ウドムルト共和国首都のイジェフスクから62キロ、モスクワから鉄道では1143キロあるそうです。飛行機では1時間、列車では17時間ほどですが、目的地到着に急がないクルーズ船では、のんびりと7日目にやっと着くわけです。モスクワから、ヴォルガ川とカマ川経由で来ると、1700キロくらいになるからです。現サラープルのある場所にヴォズネセンスコエ村(昇天聖堂=ヴォズネセンスカラ聖堂と言う木造の聖堂があったため)があり、村付近のカマ川にはコチョウサメ стерлядьがよく獲れた。と言う1596年の記述がこの町についての初出だ、とありました。コチョウザメをブルガール語でサラープリ Сарапуль『黄色い魚」と言うそうです。なるほど、魚の名前からできた地名か。17世紀にはヴォズネセンスコエ村に東のバシキール人の襲撃を防御するために砦が建てられました。18世紀にはサラープリ大村となり、1780年エカチェリーナ2世のときにサラープル Сарапул市となったそうです。 この本はサラープル市の一人の教育関係者が書き、サラープル市立印刷所が出版し、出版所書店で売られています(尋ね当てて私はそこで購入)。船に戻ってみんなに見せると、サラープル人は感心だ、ちゃんと自分たちの本を出している、と言っていました。(後記;当時、政府関係、または政府寄りの統計に近いような本のほか、郷土関係の本は少なかった、私の知る限りでは)
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