クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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up date  2003年8月28日 (追記: 2006年6月6日、2008年6月23日、2014年3月26日、2018年12月12日、2019年11月14日、2020年7月22日、2022年3月14日)
モスクワからペルミ市へ
6-2  ヴォルガ川とカマ川クルーズ(その2)
                   2003年6月28日から7月13日

              Круиз по Волге и Каме (c 28 июня по 13 июля 2003 года)

1. 出航まで(前のページ)
2.ヴォルガ川を下ってカマ川を上る 
  出航
  モスクワ運河
  ウグリッチ,ヤロスラブリ,コストロマのお遍路さん
  乗客の一人ジェーニャ
  川幅広いヴォルガ
  閘門また閘門と私のアイディア
  橋ぐらいで・・・
  観光都市ゴロデーツ
  旧ゴーリキー市とゴーリキー記念館
  チュヴァシのことなら(付;チュヴァシの歴史)
  実は有名な町エラブーガ
  たいていの乗客が始めての町サラープル
3.折り返し点ペルミから復路(次のページ)

2.ヴォルガ川を下ってカマ川を上る 
 出航
 出発日は雨で寒い日でした。そして航海中、雨が全く降らなかった日は数日しかなく、今回はお天気には恵まれませんでした。
 出発の北モスクワ河川駅は、モスクワ市の北のはずれにあり、そこは、もうモスクワ川ではなく、モスクワ川とヴォルガ川をつなぐモスクワ運河の左岸にあります。出航後その運河を遡りつつ、6つのダムを通り抜け、ヴォルガ川に出ます。

モスクワ運河を通っているうちに暗くなる
 夕方5時半に出航しても、9時、10時ごろまでは明るいので、船客はみんな甲板に出て運河沿いの景色を眺め、船内マイクから聞こえてくる添乗員のモスクワ運河説明アナウンスを聞いていました。私も必死で聞きましたが、予備知識もなかったため、よくわかりません。後でレストランでテーブルが同じアンナやサーシャに質問してもよくわかりません。彼らもよくわからないそうです。仕方がないので、添乗員のアレクセイに、何か資料があったら見せてと頼みました。彼はコピーした資料をファイルに2冊持っていて、そこから、適当にまとめて読んでいるそうです。次の放送の時まで、そのファイルを貸してあげると言われました。自分の船室に急いで持っていって、デジカメで必要なページを取り込んでおきました。

 モスクワ運河
 首都モスクワは海に面していないばかりか、交通の要路となる大河川にも面していません。ヴォルガの支流のオカ川の、そのまた支流の水深が浅いモスクワ川が、市内を流れているだけです。それで、モスクワからヴォルガへ通じる運河建設計画は18世紀の頃からあったそうです。しかし、なかなか実現できませんでした。さらに、20世紀に入ると、モスクワ川の水量では船舶運行が不便なばかりではなく、市民の飲料水にも足りなくなってきたと、その資料(ファイル)には書いてありました。

 念願のモスクワ運河は、革命の後、スターリンが、囚人労働をふんだんに使って完成させることになるのですが、『1932年6月1日から建設がはじまって、たった4年8ヶ月で完成させた。モスクワ運河より44キロも短いパナマ運河の方は完成まで30年もかかったのだ』と自慢しています(両運河は自然条件が異なるばかりでない)。運河はソ連が自前で作りました。つまり材料も資金も技術も国内調達で間に合わせたわけです。もちろん最新式機材はなく囚人の『無賃労働』の人海作戦と、建設のために『特別注文』で逮捕した特殊技術者を使って建設しました。多いときは20万人も働かされていたそうです(過酷な労働とそれによる病気で、公式でも2万2千人が亡くなったと言われる)。1933年5月に完成したバルト白海運河の従事者をそっくりモスクワ運河建設に回し、完成後は刑期前釈放するからと言って、働かせたそうです。確かに刑期前釈放されたり、報償までもらったりしたそうですが、その後またすぐ『人民の敵、祖国裏切り』罪で逮捕されて、次の建設現場に回されました。『人民の敵の妻』罪とか、『祖国裏切り者の家族の一員』罪とか『西側文化を賞賛した』罪とかもあります。
水位が上の方の水門。
(モスクワ側)が上がって、
水を止める
閘門の中の水が抜かれて、
水位が下がるとともに、
船も下がっていく

 地図で見ても、モスクワ川とヴォルガ川の間が一番狭くなったところに、全長128キロのモスクワ運河が作られています。二つの川の間の距離は短いですが、間に丘陵があります(両河川の間に分水嶺があるのは当然)。ですから、ヴォルガの水をモスクワ川に流すために、運河を掘るだけでなく水位をあげるためのダムや船舶を通過させるための閘門(こうもん)をつくりました。
 まず、ヴォルガの水を運河の方へ分流する地点にあるドヴィナ村のあたりに、大きな第一ダムを作り、ヴォルガの水をせき止めました。この高いダムのおかげで、ダムの上流側の水位は海抜124メートルまで上がり、大きなダム湖(貯水池)ができたわけです。そのダム湖の水が運河に流れ込むことになり、順番に第2ダム、第3ダムと通るうちにさらに水位が上がっていきます。丘陵が高くなっていくからです。ヴォルガの水を低いところから高いところへ流さなければなりません。ダムごとに強力ポンプがあるそうです。
 第6ダムまでに、順番に合計38メートルも水位が上昇して、海抜162メートルとなります。この第6ダム湖の左岸が、私たちの出発した北モスクワ河川駅です。スターリンは運河を作ると同時に、高い尖塔のあるスターリン式建物で有名な北モスクワ河川駅も作りました(写真は前ページ)。この第6ダムのあたりが一番高い丘陵になっていて、そこを過ぎると第7、第8ダムを経て海抜126メートルのモスクワ川へと水位が下がっていきます。(私たちのクルーズは第6湖から第1湖へのコース)
 資料によると、ヴォルガから運河を通して引いてきた水の45%はモスクワ市の水道へまわされます。それは、モスクワの生活用水の3分の2にあたります。8%は閘門で船を上げたり下げたりするための水、5%は蒸発したり水道水用に浄水するときに捨てられるそうです。そして残りの42%は市中を流れるモスクワ川に流れて行き、水量を豊富にします。今流れているモスクワ川の水量のたった1割強程度が本来のこの川の水で、あとはヴォルガからもらった分です。水量が豊富だと、衛生上もよさそうです。
水位が下の方の水門が、開いて
船が閘門から出ていく

 この運河ができたため、モスクワからヴォルガへの大型河川交通が可能になり、ヴォルガの河口からカスピ海へ出られるばかりではなく、ヴォルガと結ばれた諸運河を通り、バルト海、白海、アゾフ海、黒海へと出ることも可能になりました。

 モスクワを出発してヴォルガへ向かう船は、モスクワ運河を(人工の)流れではさかのぼりますが、(自然の)地勢では下がっていきます。出航後まもなく、まず第6閘門に入ります。入ると後ろの水門が閉まり、水が抜かれていきます。船が安定しているよう特別な杭にロープを舫(もや)います。水が抜かれ、水位が下がり船も下がっていくと、その杭も船と一緒に下がっていきます。閘門の出口の水門の向こう側と同じ水位まで下がります。
 何メートルも下がるので、入ってきたときに見えた景色はずっと上の方で見えなくなり、周りは運河の石壁ばかりです。船ごと大きな井戸の底に入った気分です。水位が下がりきると、やがて前方の水門が開いて井戸の底から広い世界に出ます。次のダム湖(貯水池)です。しばらく航行していると、第5閘門に入り、同じことをくり返します。次は第4閘門です。やがて夜もふけ、眠くなって寝ました。起きた時は、もう広いヴォルガへ出ていました。

 ウーグリッチ、ヤロスラブリ、コストロマのお遍路周り
 
 コストロマ市中央公園内にあるクレムリン
(ウィキから)。レーニン像は左下の写真
 
 コストロマ市を歩いていると・・・
 出発後2日目も雨の降る寒い日でした。最小限の荷物で、軽装だった私は寒くてたまりません。夜も寒くて眠れなかったと、朝食のとき同じテーブルのアンナに言うと、
「一杯やると暖かくなる」といわれ、彼女の船室で、朝から一緒にブランデーを飲みました。そのうち、船のエンジンがよく動くようになったのか、その熱のおかげで、船室内は暖かくなりました。甲板はヴォルガからの風で相変わらず寒く、厚着をしなければ出られません。

 その2日目はウーグリッチ市観光でした。案内されたのはウーグリッチ・クレムリン内のキリスト変容聖堂 Спасо-Преображенский собор(1713)で、素晴らしい聖歌合唱を聞き、つぎのアレクセイエフスキィ女子修道院(1371年創立)など、ロシア語の説明がわからないまま見物。
 (後記:現ウーグリッチ・ダム湖の辺に建つ ウーグリッチ市 Угличは人口3万8千人。モスクワの北200キロ。1148年の文献に初出。『モスクワ・ゴールデン・リングの一つ。リュ―リック朝唯一の後継者であるイヴァン4世の子ドミートリ―が殺害されたなど、血なまぐさいロシア史によく登場する)
 
 ヤロスラヴリのクレムリン
 
 コストロマ公園の巨大レーニン像
(ウィキから)

 3日目はヤロスラブリ、コストロマと続きます。波止場に着くと、乗客はみんな上陸します。船の甲板を歩くのも飽きて陸の上を歩きたくなるからです。この程度のモスクワ近郊観光地ですと、たいていの乗客は、何度も来たことがあるそうで、特にガイドつき市内観光に参加しないで、自分たちで好きなところへ散ってしまう人もいました。「おしきせ」観光希望者の方は2グループに別れてガイドを先頭に出発します。私も去年の冬、「モスクワ・ゴールデンリング」で見物したことはありますが、一応グループの後について、教会、修道院、博物館、城壁、また、教会、修道院といったところを回りました。お遍路さんのようなものです。ガイドは、もちろん、ロシア語で説明をしますし、その場で聞き返しも質問もちょっとできませんから、その教会の由来や、壁画の意味などよくわからないこともありました。それは、冊子なり、本なりを買っておいて、後で読めばいいことです。

 (後記:コストロマ市に近づくと市中央公園にあるクレムリンが遠くて見えなくとも、そのクレムリンの聖堂内に立っているレーニン像はヴォルガからよく見えます。ヴォルガからの写真も撮り、上陸して公園に行った時、典型的なレーニン像、つまり、プロレタリアの指導者で、右手を上げ演説するレーニン像 (左手はズボンのポケットに)の写真も近くで撮ったのですがうまく撮れていないのでウィキの写真を載せました。しかし、実は2002年『モスクワゴールデンリンクのタブ』でも私はその写真を撮っていたのだ。)

 (後記;クレムリン内の聖堂に、1913年ロマノフ朝300年記念碑を建てるための台座が完成した。300年の歴史だから、創始者をはじめ26人の歴史上の所要人物の像と活躍の場面が36メートルの高さのピラミッド状に聳えるはずだった。設計図はできていて、材料も運び込まれていたが、ロシア革命のため中止。クレムリン内の全聖堂は革命後の1929年に閉鎖。1934年には撤去された。その場所は中央公園となり、1928年、その台座には巨大なコンクリート製のレーニン像を建てた。1982年傷んだコンクリート製に換えてブロンズ像を建て、現在(2020年)も聳えている。一方、2019年一部の聖堂は修復されているが、ロシア正教会(政府も)は、元のクレムリン聖堂群のあった場所に大聖堂を建てる予定だそうだ。)

 ヤロスラヴリもコストマも、ロシア中世史(モスクワ大公国史)には必ず言及される有名な町なので、歴史的な記念物が多い。ソ連崩壊後修復されつつある。
 2003年当時は修復中の聖堂なども、その後完成し、観光客も多い。1000年の歴史を持つ文化都市のはずだが、ソ連時代から工場町でもあった。日本の企業もある。2010年には小松製作所の建設機械(採掘機)組み立て工場もできた(後記)。
 町見物にガイドとグループで出かけていても、時々、最後に回った修道院などで、
「グループは解散、後はご自由に町を回り、4時までに船にお帰りください」ということもありました。そうなると、私のような一人旅者は決まった連れがいないので、迷子にならないよう、だれかとくっついて歩くようにします。その頃には、レストランのテーブルが同じマルクとアンナとサーシャの他にも、心臓内科医(女性)や歯科医(女性)やエンジニア(女性)などの同じく一人旅者や、熟年夫婦連れのロシア人など、ほとんどの乗客と仲良くなっていました。

 乗客の一人ジェーニャ
ジェーニャ(手にしているビデオで取った
画像を後で送ってくれた)
 ジェーニャは出発前にクルーズの全コースの地図を買い、航行中いつも双眼鏡で対岸に見える村や目印を確認して、いつ聞かれても、だいたいの現在地が言えました。その勉強家のジェーニャとも親しくなりました。彼は30代後半に見えました。ちょっと年配の女性と一緒です。よく見るとかなり年配でしたから、親子かとも思えましたが、片時も離れず親しそうな様子から年の離れた夫婦かもしれないと思いました。念のために、ワーリャ Шумекая,Валентина Ивановнаと名乗った女性の方に
「あなたのご主人様のお名前は何とおっしゃるのでしょうか」と尋ねました。
「主人ですって?ホッホッホ、息子ですよ、息子」という答えです。ほかの乗客の熟年女性たちはジェーニャのことをマザコンだと言っていました。確かに、長いクルーズの間、彼が母親以外の乗客と話している姿はまれにしか見ませんでした。でも、彼は詳しい地図を持っていましたし、サーシャと違ってわかりやすいロシア語でクルーズやモスクワのことを話してくれ、乗客の中では最も感じのよい人だったので、私はよく彼に話しかけました。

 川幅広いヴォルガ
 4日目ぐらいには、モスクワ州の北東にあるヤロスラブリ州、その東にあるコストロマ州も過ぎ、その南のイワノヴォ州と航行を続けて、もうヴォルガはたっぷり見た感じです。ヨーロッパ・ロシアの大動脈ヴォルガでは、前の年にクルーズをした大自然のエニセイと違い、途中何隻もの豪華客船や『並』客船、貨物を積んだ大小の船とすれ違ったり、追い越したり、追い抜かれたりします。
村はダムの底だが
かつて高台にあった教会は残っている
 川に沿ってできた村の数は、当然のことながら、エニセイ川流域よりはずっと多いです。それら村々も、革命前からある古い村なので、遠くからよく見えるところに、教会が必ず建っています。
    (追記 曲がったテレビのアンテナみたいな格好の金の十字架が立っていると言う人もいますが、ロシアでよく見かける十字架の一つ、八端十字架。六端十字架もある。ギリシャ十字架や、ラテン十字架も見かける)
 スターリン時代、教会の建物は別の用途に使われたり、改造されたり、破壊されたり、放置されたりしたのですが、最近は修復され始めています。集落や教会が見えると、ジェーニャのところへ行って、今、どの辺なのか、地図で教えてもらいます。
 行っても行っても、村や町の姿が見えないところもあります。森や草原がどこまでも続いています。電柱のようなものが見えたり、川岸に停泊禁止マークがあったりするだけでも、ジェーニャはここがどの辺か、見当がつくようです。

 このあたりのヴォルガはとても広く、流れが緩やかなので、大陸の大河と言う気がします。しかし、実は、ヴォルガの流れは昔の形をそのまま残しているわけではないのです。ヴォルガ川には至る所にダム、ダム湖、閘門があります。ヴォルガを航行しているのではなく、長いダム湖から次のダム湖へ、と進んでいるようなものです。それで、いつでも川幅が広いのです。今見える川岸は、昔は川からずっと離れた丘の上だったというところも少なくありません。ダム湖に水没した村も多くあります。村は水没しますが、村の一番目立つ高台にそびえていた教会だけは、水上に残ります。ダム湖の中ほどに廃墟になった教会がぽつんと突き出ている光景は、ソ連時代の『怪奇』さの一つでしょうか。

 閘門また閘門と、私のアイディア
後ろの水門がシャッターのようにするすると
上がってくる。上は橋
出口の向こう側の水位と同じにになると、
出口の観音開きの門がぶわあんと開く
閘門のコンクリート壁を見ているジェーニャと
サーシャ
もっと水位が下がっても、
ミズゴケの生えかけた荒い壁が現れるだけ
 ダムでせき止められている所を下るときには、上流から下流への大きな水位差のため、船がそのままでは運航できないので閘門が設けてあります。船が閘門内に入るときは、出口の門は閉まっていて、入り口だけが開いています。中に同時に2、3隻は入ることができます。
 閘門に入ると、まず入ってきた方の後ろの門がシャッターのように、水面下からするすると上がってきて、仕切りができます。次に、一気に水を抜いて、出口の向こう側の水位と同じにします。同じになると、出口の観音開きの門がぶわあんと開きます。開ききると、信号が緑になり、杭からロープを抜いてすぐ出発です。早い時は30分で通過できます。

 ヴォルガのどの辺にあった閘門だったか忘れましたが、水位が下がっていき、水にぬれた壁がぐんぐん現れて、とうとう20メートル以上も下がったことがありました。閘門の上に橋がかかっていることがあります。通行人が、私たちが下がっていくのを上から見ています。下がって下がって下がって20メートルも下がった時には通行人は本当に小さく見えました。
 閘門と言うのは、つまり、モーターではなく水位で上下させるエレベーターと思えばいいでしょうか。
 閘門の前で順番待ちということもあります。でも、客船は優先されるようです。

 クルーズ中、何度閘門に入ったか知れません。私たちが寝ている間も入ったでしょう。そのうち、水にぬれ、コケの生えかけた荒い壁が、水位が下がるにつれて少しずつ現れてくるというのにも飽きてきました。30年代に囚人たちが突貫工事をさせられてできたという閘門はともかく、後年になってできた閘門も、味気ないコンクリート壁だけです。それも、表面は欠けたりはがれたりしています。船が杭に舫う時、ぶつけてはがしたり、長い間の水の浸食で凹んだりしています。すぐ目の前のコンクリートの小石が、剥がれそうだったので、私が指で剥がそうとしていると、背が高くて手も長いジェーニャが、ひとかけら剥がしてくれました。記念に、家に持って帰りました。『ヴォルガの閘門の壁石』です。
 「こんなに広くて大きくて、みんなから見られている壁があるのに、この水ゴケでは、もったいないねえ」と、ジャーニャに話しかけました。
「ここに、大きな美しい女性の姿を描いて、水位が下がると少しずつ見えてくる、というようにしたらどうかしら。芸術的裸体と言うわけにはいかないでしょうけど」というのが私のアイディアです。想像力の乏しいジェーニャは、耐水性顔料の調達のことでも考えていたのかもしれません。
「そんな予算はないだろう」と言うような返事です。
「では、コマーシャルでも描いたらどうかしら。広告代は入るし、それで、通行する船の閘門使用料も安くなるかもしれないわよ。」すると、横で聞いていた熟年女性が、
「まあ、コマーシャルなんて、あれだけテレビでやっていて、もうたくさんだわ」と反対しました。ソ連時代にはもちろんなかったテレビ・コマーシャルが、このところ無制限に増えてきたのが不評です。あまり洗練されていないただ繰り返しの画面が多い退屈なコマーシャルばかりです。でも、高さ10メートルから20メートル以上もあって、幅は200メートル以上はある閘門の左右の壁に、ミズゴケの生えかけた荒い壁ではなく、せめて、何か、周りの風景を損なわない程度の、ワンポイント・イラストでも描いてあったら楽しいのに。『熱帯魚』閘門とか、『北氷洋ペンギン』閘門とか、『ヴィーナスの誕生』閘門とか、『ブルーベリーの森』閘門とかそれぞれ愛称ができて、「次は何だろう?」と、クルーズ客にも好評になると思うのですが。『ロシアの勇者』閘門だけはない方がいいですが。

 橋ぐらいで・・・
 ヴォルガ川がエニセイ川と違うことは沿岸に町や村、それどころか大都会が多いと言うことのほかに、それと関係がありますが、橋が多いことです。エニセイでは、クラスノヤルスク市より先(下流)は橋が一本もありません。ヴォルガにかかる鉄橋に、ちょうど長い長い貨物列車が通っていたりすると、それを背景にまた写真をとってしまいます。ところが、それがなぜか、ジェーニャのお母さんのワーリャには気に入らなかったらしく、
「美しい自然を撮るのならわかるが、なぜ、橋なんか撮るのか。昔は、閘門も撮影禁止だったのよ。たとえば、去年、バルト白海運河を通った時は、戦略的重要建造物は撮影禁止と言われたわ。橋も、空港も、駅も基本的に撮影禁止よ。あなたのようによく写真を撮っている人は、スパイの可能性すらもあるわ」と真顔で言われました。
後のチストポーリ上陸時の写真。
私の右にジェーニャ、その右に離れて立つワーリャ

 十数年前までは、私のような物見高い外国人は疑いの目で見るような雰囲気があったかもしれませんが、今でも、こういうことを言う人がいるとは意外でした。この船の乗客は、保守層が多いようですが、それでも、『スパイ物語』はもう冗談でしか話されていません。ちょっと気を悪くした私は、それ以来、ジェーニャに話しかけるのを遠慮し、ワーリャには廊下であってもこちらから挨拶しなくなりました。
 橋は、もちろん撮影禁止ではなく、何枚撮ってもいいので、サーシャやアンナに頼んで、橋を背景に私を撮って貰いました。ワーリャの見ているところでも、わいわいきゃあきゃあと騒いで撮って貰いました。
 そのうち、ワーリャが
「何か、気に入らないことでもあったのですか。挨拶をしていただけなくなりましたね」と言ってくれたので、喜んでその和解に応じました。

 観光都市ゴロデーツ
 
 『革命』川岸通り(旧『アレクサンドロスカヤ』
川岸通り)アレクサンドル・ネフスキーの像。
対岸は工場群。
『聖なる水の教会』
 クルーズ船が寄港するようなところは、一応、観光都市です。4日目の朝の寄港地ゴロデーツ市は、ヴォルガ沿岸の古い町のひとつで、1152年創立だそうです。ここの郷土博物館で買った観光パンフレットには、14の『名所』があると書いてありました。12世紀から14世紀の集落跡がある地層で国指定文化財になっている場所や、ゴロデーツ式と言われる窓枠の木彫りがあるのでやはり国指定文化財になっている古い建物、さらに18世紀初めのミハイル教会(国指定文化財)などです。その中のいくつかをバスでまわりました。集落跡の地層というところにくると、わざわざバスから降りて、現地ガイドの長い長い説明を聞かされましたが、土(土塁)の他は何も見学しませんでした。日本のように整備されていないのでしょう。
 少し離れた郊外の森の中には「聖なる水の教会」があって、乗客は、その水を持って帰るために、ペットボトルを持参していました。私の知り合いのロシア人たちは『聖水』好きです。その泉に潜るとご利益があるそうで、水着持参の乗客もいました。森の中の湿った場所だったので蚊が多かったです。 

 ゴロデーツ市の何よりすばらしいところは、川岸からはるか下を流れる広いヴォルガが見晴らせることです。左岸にあるゴロデーツ市から、対岸へ巨大なダムができています。対岸にあった寒村は新興工業都市になり、ゴロデーツは歴史観光都市として残りました。この地点でヴォルガの水をせき止めてできたのがゴーリキー・大ダム湖です。

後記;ゴロディーツ市は人口3万前後。12世紀後半、ヴォルガ・ブルガールの襲撃からウラジーミル・ルス(中世ロシア侯国の一つ)を守るためにできたそうだ(その逆かも知れない)。1263年、モンゴル時代のアレクサンドル・ネフスキーがここで没した。最も見晴らしのよい『革命川岸通り』には、1992年アレクサンドル・ネフスキーの像が建てられた。
アレクサンドル・ヤロスラヴィッチ・ネフスキー(1220−1263)は、ノヴゴロド公(1236-1240,1241-1252,1257-1259)、ウラジーミル大公国の大公(在位:1252年 - 1263年)だった。ロシア史のどんな教科書にも登場する中世の英雄。ロシア正教では列聖されている。モンゴルのルーシ侵攻(1237−1240)では、バトゥ軍はノヴゴロドには侵攻しなかった。ジュチ・ウルスの時代、モンゴルとの臣従関係を保って(利用し利用され)、ドイツ騎士団(チュートン騎士団、プロイセン領有)やスウェーデンと戦った。スウェーデン軍とノヴゴロド公アレクサンドルがネヴァ河畔で戦い民族的勝利を得たのでその名(ネフスキー)がついているが、その『ネヴァ河畔での戦い』だけでなく、彼が勝利したという『氷上の決戦』も歴史的には実は、疑問。ロシアの愛国教育には重要人物。

 旧ゴーリキー市(ニジニ・ノヴゴロド市)とゴーリキー記念館
 
 ニジニ・ノヴゴロドのクレムリン
 4日目は寄港地が2箇所ありました。午後からの寄港地は、人口でモスクワ、サンクト・ペテルブルグについでロシアで3番目(*)の大都市ニジニ・ノヴゴロドです。13世紀まではヴォルガ・フィン人のモルドヴィン人(**)が住んでいた。モルドヴァ侯の要塞はオブラン・オシュと言いました(モルドヴィア語)。1221年ヴォルガとオカ川の合流点付近にできたのが『下流のノヴゴロド』、つまりニジニ・ノヴゴロドです。
 (*)ニジニ・ノヴゴロドの人口人口3位だったのは20世紀中頃のこと。2020年は125万人。モスクヴァ、サンクトペテルブルク、ノヴォシビリスク、エカテリンブルク、カザニに次いで第6位、上位5市が10年間で10%増に対してニジニ・ノヴゴロドは0.01%減。しかし、ニジニ・ノヴゴロド圏は200万人とされる。ロシアに100万都市は15ある。(後記)
(**)現在ヴォルガ中流のモルドヴィア共和国,Мордовия,Mordoviyaはロシア連邦構成主体の一つ。首都はサランスク。ルーマニアとウクライナの間の独立国はモルドヴァ共和国, Moldovaは旧ソ連から1991年独立。首都キシナウ(キシニョフ)(後記)  
 ソ連時代は、1932年から1990年までゴーリキー市と呼びました。1959年から1991年までは立ち入りに許可が必要な閉鎖都市でした。軍需産業都市でもあったので、外国人は不可だったのです。それで、外国人用ヴァルガ・クルーズは、ニジニ・ノヴゴロド岸を通るのは必ず夜間で、上陸はもちろんしません。1970年のこと、原子力潜水艦の部品を作っていた工場で事故が起き、12人が即死、多くの人が被曝したとか(ウィキから、後記)。
 現在は乗客は下船し、ニジニ・ノヴゴロド氏の観光をします。でも、プログラムでは滞在時間は4時間でした。いつものことですが、前半はバスでグループ観光、後半は自由時間です。バスでまわったのは、ゴーリキー記念館や、ニジニ・ノヴゴロドのクレムリン、町一番の繁華街などです。
 途中バスの窓から、ガイドに、
「左に見えるのは、日本文化センターの建物です」と言われた方向を見ると、『日の丸』印がありました。何人かの乗客が
「ほら、あの建物ね」と言って私の方を見て微笑してうなずきました。ニジニ・ノヴゴロドのような130万人の大都市には、クラスノヤルスク市とは違って、大使館も広報活動に力を入れているのでしょう(と思いました)。

 ゴーリキー記念館では、ガイドにマクシム・ゴーリキー(1868-1936)とその息子の『謎の死』について質問している観光客もいました。それは、国民に人気の高かった作家ゴーリキーの一人息子がまだ30代の時に急死したのは、医師がスターリンの指示により死なせたのではないかというものです。ゴーリキー自身も病気になった時、医師が死ぬのを『助けた』といわれています。それら医師はクレムリン付き医師でした。クレムリン付きの医師にかかって『急死』したのはゴーリキーの息子だけではなく、フルンゼなど当時の有名人がたくさんいたそうです。今でも、それら『謎の死』ついては多くの本が出ていて、ロシア人ならだれもが知っているようです。いろいろな説があるのですが、殺害説の可能性は大きいと思います。
後記:1918年から1986年まで社会主義リアリズムの創始者ゴーリキーはトルストイとプーシュキンに次いでソ連邦で多く出版された作家だった。ゴーリキーは1902年に代表作『どん底』を発表。
1990年代までの読本の教科書には必ずゴーリキーの作品が大きく取り上げられ、ソ連邦の子供達には必読書でもあった.1996年頃、私が教えていたゼレノゴルスクの学校では生徒達がゴーリキーや、マヤコフスキーの作品は読まないと反抗していたものだ。
1938年第3次モスクワ裁判(右翼トロツキスト陰謀事件)で21人の被告の一人だったゲンリヒ・ヤゴーダГенрих Ягодаの自白によると、ヤゴーダはトロツキーの命令によりゴーリキーを殺害、ゴーリキーの息子の方はヤゴーダ自身の意思により殺害と自白したとか。(ソ連政治犯裁判の自白はほぼ虚偽、強制されたもの)。
また、同裁判の被告だった3人のスターリンの侍医Казаков,Левин,Плетнёвがヤゴーダの命によりゴーリキー他を殺害したと自白している。第3次モスクワ裁判の中心被告はニコライ・ブハーリンだった。ヤゴーダは逮捕前は内務人民委員部(のちのKGB)の初代長官。
ソ連崩壊後、ゴーリキーは批判されている。ゴーリキーは他の作家たちと共に『スターリン記念白海・バルト運河―1931-1934年の建設の歴史』を1934年に編纂した。ここでは、運河工事を全面的に称賛し、工事従事者(粛正された政治犯)を完全に犯罪者扱いするなど、スターリンの盲従者としての姿勢を披露しているということからだ。批判者の一人、ソルジェニーツィンは「ロシア文学史で奴隷労働が賛美された1冊目の本だ」と言っている
チカロフの階段を上から望む
 
ヴォルガの船上から、チカロフの階段を 
 旧市街はヴォルガの絶壁の上に立っています。はるか下に見える川岸まで長い長い、美しくうねった階段が続いています。これは、第2次大戦後のドイツ人捕虜が作ったものだと、ガイドが言っていました。
後記チカロフの階段Чкаловская лестницаと言う。旧市街のクレムリンの近くに建つチカロフ記念像から川岸までの560段の階段でロシアで最も長い。事実、第2次大戦のドイツ人捕虜の労力などで1949年に完成。ヴァレリー・チカロフとは1937年モスクワから北極点経由バンクーバーまで63時間の無着陸飛行(当時の世界記録)したソ連邦英雄。
 ニジニ・ノヴゴロドはヴォルガとオカ川の合流点にあります。(チカロフの階段は合流点よりやや下流のヴォルガに面している)。オカ川をさかのぼっていくとモスクワ川に出ます。ですから、昔の河川運行と言えば、モスクワから、水深の浅いモスクワ川を通り、オカ川経由でヴォルガに出ました。今でも、小さな船なら、この南回り経由で航行しているそうです。
 自由時間、他の船客は商店街でウォッカやおつまみの買い物をしていました。私はと言えば、一人でニジニ・ノヴゴロド河川駅の近くの川岸通りを散歩して夕日を眺めていました。
 チュヴァシのことなら(付;チュヴァシの歴史)
 
有料で写真を撮る 民族衣装の飾り。試着は無料 
 5日目はチュヴァシ共和国首都のチェボクサリ市です。埠頭には、船客目当ての土産物露店が並んでいました。私たちがぞろぞろ上陸していくと、民族衣装の女性の出迎えがありました。一緒に写真を撮るのは有料(10ルーブリ=40円)です。これくらい商売気があったほうがにぎやかでいいです(商売気のないつっけんどんな町が多い)。さらに、現地のガイドはテレビのトーク番組に出してもいいかと言うくらいの語り部でした(と、乗客たちが喜んでいました)。チュヴァシ共和国は、ロシア連邦構成共和国の中でも、地元民族(ここではチュヴァシ人)の割合が78%と過半数を占める数少ない共和国の一つだそうです。ちなみに、クラスノヤルスク南部のハカシア共和国のハカシア人の割合はたった11%に対してロシア人は80%もいます。
 ヴォルガ中流には、チュヴァシ人やヴォルガ・タタール人、バシキール人などのチュルク語系民族のほか、ウドムルド人、マリ人、モルドヴィンмордва, мордвин人などのフィン・ウゴル語系民族などが住んでいて、16世紀頃になってモスクワ公国(後のロシア帝国)の一部となり、ソ連時代は一応それぞれの(民族)自治共和国を作っていました。それ以上、チュヴァシについては知りません。超多民族国家ロシアですが、チュヴァシ共和国について書いた本は、遠くシベリアの私の住むクラスノヤルスクの本屋には普通売っていません。チュヴァシ共和国の首都チェボクサリなら売っているはずです。売っていそうなところにきたら、教えてくださいとガイドに頼んでおきました。ちゃんと、郷土博物館で『チュヴァシ民族の歴史と伝統文化』と言うカラー版の頼もしい本が90ルーブル(360円)で売っていました。チュヴァシのことはこれでオーケーです。
本『チュヴァシ』の表紙
 後記: しかし、実はその本を読んだのは15年後の2018年だ。それで、ガイドがチュヴァシについて言っていたことも思い出し、ウィキぺディアなど読んで、だいたいの歴史がやっと少しわかったのだ。今では、ネットにチュヴァシ共和国の公式ページが載っていて、その歴史のページは15年前に購入したこの2000年版の本とほぼ同じだ。
  テュルク系の故地は中央アジアだ。テュルク系チュヴァシ人の故地も中央アジアだ。天山山脈とアルタイ山脈の間、イルティシ川上流あたりだった。匈奴・フン族もここで遊牧をしていた(この本では紀元前後、漢王朝に追われた匈奴が西進して4世紀のフン族と呼ばれたとなっている)。チュヴァシの遠い祖先のオグールогурские племена(ブルガール)族やスヴァール(суварские, сабирские)族は西フン族の一部だったとある。チュヴァシ語は他のテュルク諸語と異なり、モンゴル語の要素が多いそうだ。これはアルタイ祖語が古モンゴル語族と古テュルク語族に分かれたことを表している。つまり、チュヴァシ語はより初期のテュルク語の形を残しているということだそうだ。
  テュルク語族は5語群ほどに分かれるが、そのうちのオグール(ブルガール)語群は古テュルク語から最も早くに分かれた、ということだ。オグール語群にはブルガール語(死語)、チュヴァシ語、ハザール語(死語)や、フン語(死語)、アヴァール語(死語)があるが、ガイドが強調していたのは、現在も話されているのはチュヴァシ語だけで、チュヴァシ語がテュルク語族の中で最も古いということだった。
  さらに、購入したその本によると、1世紀初め頃にチュヴァシ人の遠い祖先オグール огурские племена(ブルガールを含む)族やスヴァール суварские, сабирские 族は他の古テュルクと別れ西に向かい、秋冬はバルハシ湖岸で、春夏はイルティシ川とオビ川合流点(当時、ウーゴル族、つまりハンティ人やマンシ人、マジャール人の祖先が住んでいた)で遊牧していた。3世紀ごろにはさらに西のアラル海岸に移り、東イラン系(サキ、マッサゲティ、烏孫など)とも融合・吸収・同化した(チュヴァシ語には古イラン語からの語彙が多いそうだ)。オグール=スヴァールはヴァルガ下流右岸から北カフカス、アゾフ海岸に移り、当地のサルマートやアラン人を支配下に置く(融合または吸収、同化)。4世紀末ヴォルガとドニエプル川の間の草原には東から移ってきたフン族が、オグールやウ―ゴル(マジャール人)、イラン系のサルマタイやアラン人たちを含めた勢力になった(フン族がそれら諸族を支配下に置いた、または彼らがフン族の一部となった)。そのフン勢力とテュルク系やイラン系ばかりでなく当時のさまざまな人々・部族を含む連合軍(フン諸族と言う)がアッチラの下、東ローマや西ローマに侵入したわけだ。
650年頃の東地中海、黒海、カスピ海沿岸

  ヨーロッパにおけるフン族の覇権の終了後、7世紀には、遊牧から農耕に移りつつあったオグール族(ひとまとめにフン族と呼ばれていた。事実フン族の民族同盟の主要構成員だったろう)のブルガールとスヴァールは黒海東北岸・アゾフ海に大ブルガリア国(古ブルガリア632-668年)を建てる。しかし、ハザール・カン国によって征服されると、大ブルガリアの一派(アスパルフ指導)はドナウ川下流へ移動し第1次ブルガリア帝国(681年-1018年、東ローマに併合されるまで)をたてた。その支配下にはさまざまな部族の南スラブ人が多数おり、現地のスラヴ人と融合し、または吸収され、テュルク系要素を濃く残した現在の南スラブ系ブルガリア人につながっていった。
   ハザール勢力下のアゾフ海・カフカスに残った旧ブルガールの他の一派は黒ブルガールと呼ばれ、現在のバルカル人(ロシア連邦内カバルダ・バルカル共和国の主要住民)の祖先ではないかとされる。
  ヴォルガ川中流へと移動した別の一派が、7世紀から1240年代にボルガール Болгар(現在のヴォルガとカマの合流点よりやや下流)、のちにビリャ―ルБиляр(その東)を首都としたヴォルガ・ブルガール国(地元諸民族連合)を打ちたてた。当時ヴォルガ中流にはフィン・ウゴル系の部族がいたが、勢力下においた(地元民族もヴォルガ・ブルガール連合の成員となる)わけだ。最盛期は10-13世紀初めで、中流ヴォルガの広大な一帯を支配下におき、北のユグラの地(北ウラル、北氷洋岸)、バルト海、黒海、カスピ海、アラル海やウラル方面と交易して栄えた。その中継貿易には東ルス族=スラヴやハザール商人も参加。同じく今回のクルーズ中カザニ市で購入した"История Татарстан"では、「中流ヴォルガにできた初めての国家ヴォルガ・ブルガール国の文化的、経済的、社会・政治的発展の水準は、キエフ・ルーシや他のルーシ諸侯国ばかりか当時の西ヨーロッパの諸国にも劣らなかった」とある。
  が、1240年代モンゴルのバトゥ(ジュチの子)に破れて、ジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の一部となる。ヴォルガ・ブルカール国の住民の多くは、カマ川北や、現在のマリ・エル共和国(ロシア連邦内の連邦構成主体の一つ。フィン・ウゴル語派種族でアルマリジン=チェレミス人による民族自治共和国で、沿ヴォルガ連邦管区に所属する。首都じゃヨシュカル・オラ)、キーロフ州、タタルスタン北やチュヴァシに避難した。
  ヴォルガ・ブルガールは10-11世紀イスラムを取り入れたとされるが、イスラム化されたのはムスリム化したキプチャック・タタール(ジュチ・ウルス)の時代だ。ジュチ(バトゥ)軍は少数のモンゴル遊牧民他、征服した中央アジアのテュルク系遊牧民(タタール)が主力だった。(モンゴル軍のモンゴル系やテュルク系をすべてタタールと呼ぶこともある)
  1438(1445)年にはジュチ・ウルスの後継国家の一つ、カザン・タタール(キプチャック系テュルク、しかしこの名が定着したのは17,18世紀で、当時はブルガール人、カザニ人、ムスリムと呼ばれた)が、地元ブルガールや地元フィン・ウゴル系(チェレミスчеремисы 、チュヴァシчуваш、ヴォチャーキ вотяки=ウドムルト)も含んだカザン・ハン国を建て、1552年モスクワ大公国のイワン4世(雷帝)に滅ぼされるまで存続した。その頃、ブルガール系を中心にフィン・ウゴル系(当時チェレミス人と言った、現マリ=エル人など)を含んで現代のチュヴァシ人ができた。
 1552年 からチュヴァシはロシア・ツァーリのカザン・ツァーリ国(ロシア皇帝イヴァン雷帝4世やその後継者が統治)の一部となり、1708年ピョートル大帝の改革からはロシア帝国カザン県などの一部だった。革命後の1920年からはチュヴァシ自治州(1925年まで)、チュヴァシ・ソ連邦自治共和国(1990年まで)、チュヴァシ・ソ連邦共和国(1992年まで)、チュヴァシ共和国(ロシア連邦構成)となった。

 それまでは、寄港地で、お土産と言えば、荷物を増やさないため、せいぜい薄っぺらな観光パンフレットしか買ってこなかった私ですが、この頃から、その町について書いた本を買うようになり、あとで、本がぎっしり詰まった重いかばんに苦労するようになるのです。
 実は有名な町エラーブガ
 6日目は、起きてみると、もうヴォルガ川ではなくカマ川に入っていました。寄港地はタタルスタン共和国のエラーブガです。共和国首都のカザニより200キロ東(カマ川上流)にあります。(タタルスタンは南北に290キロ、東西に460キロあるが、カザニはヴォルガ川がタタルスタンから出る近くに、一方、エラーブガはヴォルガ川に合流してくるカマ川岸にあると言えます。つまりタタルスタン内では東西に流れるカマ・ヴォルガ水系の、カザニは西に、エラーブガは東にある)。私はこの小さな町(しかし、人口7万人)についてはじめて知りましたが、実は、千年近く前から、カマ川の交通要所として集落があったそうです。 
後記:ウィキペディアによるとエラブガ Елабуга(タタール語ではアロブガ Алобугаは11世紀の初めごろ、ヴォルガ・ブルガールの辺境の町として、城壁が建てられたそうだ。それは現在『悪魔の塔(エラーブガ城跡)』と呼ばれて観光名所の一つだ。交通の要所でもあったので商人が多く住んでいた。帝政時代はロシアでも長者の商人が多かったとか。そういえば、イルクーツクの私の古い友達のバイカ湖オリホン島のニキータの妻の母親は、エラーブガの大商人と貴族の娘の孫だという。もちろん革命後粛清された。)
 
 ツヴェタエヴァの墓。
女性が持つのはツヴェタエヴァの写真
『悪魔の塔』観光
頭にかぶり物をすれば女性でも入れる
イスラム礼拝所寺院(モスク)
 エラーブガは古い歴史の町であるだけでなく、日本でもロシア語関係者(愛好者)の間ではファンもいる20世紀の女流詩人マリア・ツヴェタエヴァの記念館があることでも有名なのだそうです。ガイドは、私が日本人と知ると、
「ツヴェタエヴァを日本語に訳した日本人が、去年記念館を訪ねて来た」と言っていました。また、ここに戦後強制抑留されていたという年配の日本人が、夫婦で訪ねてきたこともあったそうです。
   (後記:第2次大戦時、捕虜収容所があった。戦後、日本人抑留者の収容所があった。2000年、日本の厚生労働省により慰霊碑が建立された)
「そんなお年の方にはとても見えなかったわ。それにしても、日本人の方は皆さんお若いわね」とお世辞を言われました。私は、そのガイドが出会った3人目の日本人です。
 ツヴェタエヴァは、エラーブガに到着後数日(1941年)で自殺するのですが、これも、スターリン時代の悲劇のひとつです。ガイドがその間の事情を説明していました。墓地にも案内されましたが、推定埋葬場所です。
 
 エラーブガには、19世紀の著名な風景画家シーシキンの記念館、ナポレオン戦争に男装で参加したロシア初の女性将校ヅローヴァНадежда Дуроваの記念館のほか、三日月の尖塔のあるイスラム寺院も多いです。
 ロシアに住んで長いですが、初めてイスラム寺院の中に入ってみました。頭はかぶり物で被わなければなりません。ロシア正教の教会と違って、聖人達の肖像画(イコン)もなく、床一面にじゅうたんが敷いてあるだけというのも、礼拝所として悪くありません。
 でも、クルーズ同行のロシア人達はそうとは思わないようです。船客の中に熱心なロシア正教の信者のおばあさんがいて、なぜ、10世紀末にロシアがイスラム教やローマ・カトリックではなく、ギリシャ正教を取り入れたのか、私に説明したがリました。そのおばあさんによると、ギリシャ正教の寺院は、外装も内装(イコンを含む)もきらびやかで人々を引き付けることができるからというのも、1つの理由だったそうです。
 出口に売店があり、『一夫多妻について』と言う本を買いました(30ルーブル)。「一夫一婦制で妻が夫を独占しても何もよいことはない」と言うような内容のロシア人女性の手記集でした。『イスラムの長所』という冊子も売っていました。どちらも、100円くらい
 たいていの船客が初めての町サラープル
 子供向きサラープルの本
 7日目の寄港地はウドムルト共和国の第2の都市サラープルです。と言っても人口10万人(2017年は98 000人弱)の、『何もない(とみんなが言っていた)』町で、ガイド付き観光もなく、3時間の自由時間があっただけでした。乗客はみんな、サラープルなんて初めてで、どこへ行ったらよいかわからず、ただ、行き当たりばったりに、繁華街らしいところを歩いていました。町の目抜き通りのはずなのに、割れたようなアスファルト舗装があったりなかったりでした。ウドムルトはきっとペレストロイカとソ連崩壊後の恐慌から立ち上がりが遅れている地方の一つなのでしょう。(2010年では共和国内ウドムルト人は28%、ロシア人62%、タタール人6%)
 
 サラープル、船着き場への通り

 一人旅で、エネルギッシュな中間管理職タイプの熟年女性ターニャだけは、郷土博物館(これがロシアの町ではどこも第一級の名所とされる)を自力で訪ね当てて、見学できたそうです。私も小さな町で迷子になりそうもなかったので、一人で歩き、本屋へ3軒寄ってサラープルとウドムルトの本を買いました。どの本屋の店員も親切で、私の探している本をいろいろ出してきてくれたり、ない場合は、ありそうな他の本屋の場所を教えてくれたりしました。船の運航の都合で寄港しただけのサラープルには、はじめからあまり期待していなかったのですが、『私たちの町、サラープル』と言う子供向きで読みやすい本が見つかりました。
 その本によると、ここは、ウドムルト共和国首都のイジェフスクから62キロ、モスクワから鉄道では1143キロあるそうです。飛行機では1時間、列車では17時間ほどですが、目的地到着に急がないクルーズ船では、のんびりと7日目にやっと着くわけです。モスクワから、ヴォルガ川とカマ川経由で来ると、1700キロくらいになるからです。現サラープルのある場所にヴォズネセンスコエ村(昇天聖堂=ヴォズネセンスカラ聖堂と言う木造の聖堂があったため)があり、村付近のカマ川にはコチョウサメ стерлядьがよく獲れた。と言う1596年の記述がこの町についての初出だ、とありました。コチョウザメをブルガール語でサラープリ Сарапуль『黄色い魚」と言うそうです。なるほど、魚の名前からできた地名か。17世紀にはヴォズネセンスコエ村に東のバシキール人の襲撃を防御するために砦が建てられました。18世紀にはサラープリ大村となり、1780年エカチェリーナ2世のときにサラープル Сарапул市となったそうです。
 この本はサラープル市の一人の教育関係者が書き、サラープル市立印刷所が出版し、出版所書店で売られています(尋ね当てて私はそこで購入)。船に戻ってみんなに見せると、サラープル人は感心だ、ちゃんと自分たちの本を出している、と言っていました。(後記;当時、政府関係、または政府寄りの統計に近いような本のほか、郷土関係の本は少なかった、私の知る限りでは)
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