モスクワからペルミ市へ 6-1 ヴォルガ川とカマ川クルーズ(その1) 2003年6月28日から7月13日 |
1. 出航まで |
(2003年頃の)ロシア旅行事情 |
行き先選び(リヴァー・クルーズ) |
ヴォルガ方面を選ぶ(付:1992年のクルーズ) |
クラスノヤルスクからモスクワへ、 白海のソ諸島を回って、またモスクワへ |
バシコルトスタン号と船客 |
2.ヴォルガ川を下ってカマ川を上る |
3.カマ川を下る帰りのコース |
1.出向まで | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
以前は、日本のような旅行会社もなかったと思います。ロシア人ですと、休暇で国内国外の観光旅行する時は、職場等の組合に申し込みをして、旅行券(プチョーフカпутёвка 無料か、割引価格)を交付してもらって出かけて行ったようです。昔は、この旅行券がボーナスのようなものだったでしょうか。ですから、もらえないこともあったり、希望通りの時期や行き先でなかったこともあったようです。でも、最近は旅行するにもこのような不自由な『ソ連式』でなくなりました。民間の旅行会社や取次店がたくさんでき、お金さえ出せば、個人で簡単に好きなコースを選んで申し込めるようになりました。私も、1年半前、『モスクワ近郊・歴史探訪のバスの旅(モスクワ・ゴールデンリング)6日間』という添乗員付きツアーに参加しました。旅行会社に支払った金額は200ドルほどです。普通のロシア人でも払える金額です。でも、この旅行の出発地点はモスクワですから、私の住むクラスノヤルスクからそこまで自力で行かなくてはなりません。 クラスノヤルスクから出発する国外旅行コースもあります。トルコやキプロス、バンコクなどへ行くツアーだそうです。需要があるのでしょう。クラスノヤルスク発の国内旅行コースというと、よさそうなのは『エニセイ川クルーズ12日間』しかありません(当時)。これには、去年参加しました。集合地点が、勝手知ったクラスノヤルスクですし、クルーズというのは長期滞在のホテルがそのまま移動してくれるので、荷物を詰めたり解いたりしなくてもよく、時間いっぱい旅を楽しめます。
観光だけではなく、有名な鉱泉の出るところや塩湖などに行って、治療もかねて何日も滞在するというのも、ロシア風の休暇の過ごし方の一つです。湯治の施設もあります。日本の温泉町と似たところもあるかもしれません。 また、鉱泉の出るところでも、美しい湖畔や川辺、景色のよい山でも、宿泊施設のあるところよりないところの方がずっと多いので、そこへは、テントを担いでいきます(お金があればヘリコプターでいきます)。手つかずの自然の中には、鉱石や石油等の産地を捜すための地質調査隊や、狩猟者用の無人の山小屋があってそこに泊まることもできます。こんな旅が最もシベリアらしいですが、ガイドなしで誰にでもできるわけではありません。
ロシア観光旅行のもうひとつのタイプはクルーズです。リヴァー・クルーズの楽しさは、ロシアのような大陸でないと味わえないでしょう。シベリアには、東からアムール川、レナ川、エニセイ川、オビ川とあって、どれも長さが4000キロ、5000キロですから、日本の北海道から沖縄までもあります。でも、クルーズ船が往復しているのはエニセイ川の場合、クラスノヤルスクから北緯69度のドゥジンカまでの約2000キロだけです。それだけでも十分な距離riです。ウラル山脈の西側にも、ヨーロッパで一番長く、流域面積も広いヴォルガ川があります。長さは3700キロです。ロシアの川はたいてい冬季は凍りますから、クルーズできるのは、場所にもよりますが、長くて5月始めから10月末までです。 レナ川も季節によっては部分的に観光クルーズ船が運航しているかもしれません。オビ川にはノヴォシビルスクからサレハルド(ちょうど北極圏の入り口のあたり)までのコースがあると、クルーズ愛好ロシア人から聞きました。ヨーロッパ・ロシアのヴォルガ方面ですとたくさんのコースがあるはずです。 2002年は、地元のエニセイ川クルーズをしましたから、その次は『ロシアの母なる川ヴォルガ』だと思いました。昔はロシアに限らず交通は川を利用していましたから、かつて交易地点だった大小の村々も大きな川やその支流にできました。支流が本流に合流するような交易の要所にできた村は発展して大きな町になりました。また、今でも、道路がなくて川をたどらないと行けないという町や村がたくさんあります。道路や鉄道を利用するより、川に沿って行った方が、ロシアらしいロシアを見ることができそうです。
エニセイ川クルーズの豪華客船が『アントン・チェーホフ号』だけなのに比べると、ヴォルガ方面は船も選べます。でも、夏場の豪華客船は外国人観光グループ(日本人を含む)に押さえられていて、一般ロシア人(私を含む)が予約できる船は限られていることがわかりました。
ソロヴェツキー諸島旅行も印象深いものでしたが、また別の機会に書きたいと思います。実は最も印象深かったのは寒かったこと。新聞紙を服の間に挟みました。そして、運河が多かったこと。そして、同じツアーグループに年配のアメリカ人とその若いロシア人の妻がいたこと。保険員だというそのアメリカ人はロシア語をしゃべらなかったが、目を合わせる度ににっこり微笑んでくれた。これが自分のロシア語だという風だった。 (追記;ソロヴェツキー諸島は2003年と比べて、今は観光客がぐっと多くなったそうだ。15世紀、隠遁者の修道院から始まり、極北の聖地となった。革命後は政治犯の有名な収容所であり(ソ連で正式には始めて矯正労働収容所ができたという。『聖地ソロヴェツキーの悲劇、ラーゲリの知られざる歴史をたどる』というNHK出版物もある)、ソ連崩壊後にはまた正教会修道院として復活した。私の訪れた2003年は、まだ復興が途中だった。2015年サンクト・ペテルブルクからコミのスィクティフカルへ行ったとき知り合い、その後も連絡を保っているジェーニャ・ストレリツェフは、ソロヴェツキー島のファンだ.彼は30代だから2003年はまだ訪れてないが、成人してからは毎年訪れている、現地から絵はがきも日本の私に郵送された。左写真)
モスクワから出発した列車でケミと言う白海に面した小さな知らない町で降り、もし、電子メールで確約されているはずのガイドの迎えがなかったらどうしょうか。と、不安いっぱい列車から降りたのですが、一応計画通りに旅は運び、迷子にもならず、6月27日には、無事またレニングラード駅に戻れました。 翌日のクルーズ出発まで、北モスクワ河川駅近くのホテルに一泊しました。この程度の時間的余裕を持つことが、時刻表どおりに動いてくれないことも多いロシアの交通機関を利用する旅行には必要です。というより、今回はそれ以上ぴったりの日程は組めませんでした。このように余裕を取って日程が組んであるときに限って時刻表どおりに運行して待ち時間が多く、余裕のない組み方のときには遅れてはらはらするものですが。 ちょっと自分が貧しいロシア人の田舎っぺのような気がしました。それも悪くありませんが。 埠頭のある岸壁の端から端までは1キロ半もありそうでしたから、歩いてバシコルトスタン号を探さずに、インフォーメーションで目当ての船が停泊している埠頭番号を聞きました。バシコルトスタン号は3階建で、ソ連時代には一般旅行者用の中程度の船だったのを、時代に合わせて少し景気のよいロシア人が乗るように改造されたと言うかなり古い船でした。定員は半分に減った分だけ一つ一つの船室は広く快適になったようです。私が予約したのはツインルームのシングルユースですが、そうでなければ、知らないロシア人と同室にされることもありえるのです。船室には小さな冷蔵庫もあり、エアコンはありませんが扇風機があります。窓は上下開閉式の大きなものでしたが、私の力では開きませんでした。開けたい時は船員さんに頼みます。シーズン中は外国人旅行会社が貸し切っているらしい周りの豪華客船と比べると、バシコルトスタン号は外見も中味も、つまりサービスもB級のようですが、実は、今回は、このような船にこそ乗ってみたかったのです。
9割ほど満席で、乗客は70,80人くらいでした。チェックインの後、レストランの座席券を渡されました。レストランのテーブルは4人用なので、老夫婦のカップルと一人旅の男性との組み合わせでした。乗客の中に外国人は私以外に一人もいません。慎ましやかな船でしたから、年配や中年の夫婦連れ、中間管理職タイプの熟年女性の一人旅、親子連れ、孫と一緒のおばあさんといった乗客の顔ぶれでした。若い夫婦のカップルは一組だけでした。華々しいロシア・ニューリッチはトルコへ行ったりキプロスへ行ったりで、地味な国内旅行はしないのでしょう。また、年金だけで暮らしている老夫婦や、月収が平均以下の家庭では、クルーズといった豪華旅行はなかなかできません。クルーズができるほどのお金を貯めた若い人たちは、ヨーロッパ格安ツアーに出かけます。そういうわけで、バシコルトスタン号の乗客の平均年齢はやや高く、それほど豊かではないが、貧しくもないという層でした。そして、ふたりを除いて、みんなモスクワかその近郊出身でした。また、私を含めて大部分の乗客がクルーズ愛好家で、今回が初めてではないと言っていました。 日本の旅行者ならみんな持っているデジカメや小型ビデオカメラなどといったものは一人も持っていませんでした。大きな旧型日本製ビデオカメラを持っていた人が二人、「ゼニット」と言う旧ソ連時代の国産カメラを持って手動で距離や露出をあわせる年代物カメラの熟年女性たち、また国産「超筒長」双眼鏡で対岸をのぞく老夫婦と、みんな復古調でした。手動カメラなんてほんとうに懐かしいです。私はあわせ方は忘れてしまったので、そのカメラでその人たちをあまり撮ってあげることはできませんでした。でも、私の普通のデジカメでヴォルガやカマ川、沿岸の町をバックに、「ねえ、私を撮って」と言って近くにいる人に撮ってもらいました。 レストランで同じテーブルに座り、16日間毎日一緒に食事をしていた老夫婦のマルクとアンナや、一人旅の中年男性サーシャとは、最も親しくなったので、私を写すカメラマンになったのも、彼らが一番多かったです。特に、サーシャは機動性があったので必要な時にはいつも横にいました。でも、彼のロシア語は、私にはよくわからないことが度々ありました。早口で不明瞭な話し方、俗語を使った言い回しが多く、外国人にわかるような言い換えができなかった(したくなかった)ようで、何度も、アンナにロシア語からロシア語に「訳して」もらいました。 その3人の他にも、ほとんどの乗客と仲良くなりました。 このクルーズのコースは、北モスクワ河川駅を出発し、モスクワ運河を経てヴォルガ川に出て、ヴォルガを下りカザン市を過ぎたところで、一番大きな支流のカマ川に入り、カマ川をさかのぼりウラル山脈の西にあるペルミ市まで行って、そこから同じコースでモスクワへ戻ってきて解散、ということになっています。毎日、一つか二つの町に上陸して、観光しながら行くことになっています。ロシアの母なる川ヴォルガは、昔から主要交通路で、村や町はヴォルガに沿ってできていったのですから、川を下るだけでも、『ロシア歴史の旅』ができます。 |
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