クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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up date  2003年8月28日  (追記: 2006年6月6日、2008年6月23日、2017年6月22日、2019年11月14日、2020年7月15日、2022年3月13日) 
モスクワからペルミ市へ
6-1   ヴォルガ川とカマ川クルーズ(その1)
                       2003年6月28日から7月13日

1. 出航まで
  (2003年頃の)ロシア旅行事情
  行き先選び(リヴァー・クルーズ)
  ヴォルガ方面を選ぶ(付:1992年のクルーズ
  クラスノヤルスクからモスクワへ、
  白海のソ諸島を回って、またモスクワへ
  バシコルトスタン号と船客
2.ヴォルガ川を下ってカマ川を上る
3.カマ川を下る帰りのコース
ロシア連邦を流れる大河


1.出向まで
 (2003年頃の)ロシア旅行事情
 クラスノヤルスク市に住むようになって7年経ちますが、よく国内を旅行するようになったのは、ここ2,3年です。それまでは、帰国するための経由点、ハバロフスクへやむなく飛ぶ時ぐらいしか、長距離旅行はしたことがありませんでした。飛行機はダイヤ通りに運行してくれませんし、列車のトイレは苦手でした。それに、知らない町に行って空港や駅からホテルまで一人でタクシーに乗るのは、やはり不安です。といって、重い荷物を持って、親切そうな通行人に尋ねながら、バスや電車で行くのも、苦行です。
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 以前は、日本のような旅行会社もなかったと思います。ロシア人ですと、休暇で国内国外の観光旅行する時は、職場等の組合に申し込みをして、旅行券(プチョーフカпутёвка 無料か、割引価格)を交付してもらって出かけて行ったようです。昔は、この旅行券がボーナスのようなものだったでしょうか。ですから、もらえないこともあったり、希望通りの時期や行き先でなかったこともあったようです。でも、最近は旅行するにもこのような不自由な『ソ連式』でなくなりました。民間の旅行会社や取次店がたくさんでき、お金さえ出せば、個人で簡単に好きなコースを選んで申し込めるようになりました。私も、1年半前、『モスクワ近郊・歴史探訪のバスの旅(モスクワ・ゴールデンリング)6日間』という添乗員付きツアーに参加しました。旅行会社に支払った金額は200ドルほどです。普通のロシア人でも払える金額です。でも、この旅行の出発地点はモスクワですから、私の住むクラスノヤルスクからそこまで自力で行かなくてはなりません。
 クラスノヤルスクから出発する国外旅行コースもあります。トルコやキプロス、バンコクなどへ行くツアーだそうです。需要があるのでしょう。クラスノヤルスク発の国内旅行コースというと、よさそうなのは『エニセイ川クルーズ12日間』しかありません(当時)。これには、去年参加しました。集合地点が、勝手知ったクラスノヤルスクですし、クルーズというのは長期滞在のホテルがそのまま移動してくれるので、荷物を詰めたり解いたりしなくてもよく、時間いっぱい旅を楽しめます。
 行き先選び(リヴァー・クルーズ)
 ロシアは広いですが、手軽に観光旅行できるところは多くありません(2003年)。ただ、モスクワやサンクト・ペテルブルグ市やその周辺ですと、名所旧跡めぐりのパック旅行などがたくさんあって便利です。それ以外の、たとえばシベリアの都市は、新しいものはみな同じような『ソ連式』の都市計画でつくってあり、古い教会などはあってもスターリン時代に破壊されていて、わざわざ遠くから来て見物するほどのものもなく、パック旅行も企画されていないようです。(2003年当時)
 観光だけではなく、有名な鉱泉の出るところや塩湖などに行って、治療もかねて何日も滞在するというのも、ロシア風の休暇の過ごし方の一つです。湯治の施設もあります。日本の温泉町と似たところもあるかもしれません。
 また、鉱泉の出るところでも、美しい湖畔や川辺、景色のよい山でも、宿泊施設のあるところよりないところの方がずっと多いので、そこへは、テントを担いでいきます(お金があればヘリコプターでいきます)。手つかずの自然の中には、鉱石や石油等の産地を捜すための地質調査隊や、狩猟者用の無人の山小屋があってそこに泊まることもできます。こんな旅が最もシベリアらしいですが、ガイドなしで誰にでもできるわけではありません。
ヴォルガ川

 ロシア観光旅行のもうひとつのタイプはクルーズです。リヴァー・クルーズの楽しさは、ロシアのような大陸でないと味わえないでしょう。シベリアには、東からアムール川、レナ川、エニセイ川、オビ川とあって、どれも長さが4000キロ、5000キロですから、日本の北海道から沖縄までもあります。でも、クルーズ船が往復しているのはエニセイ川の場合、クラスノヤルスクから北緯69度のドゥジンカまでの約2000キロだけです。それだけでも十分な距離riです。ウラル山脈の西側にも、ヨーロッパで一番長く、流域面積も広いヴォルガ川があります。長さは3700キロです。ロシアの川はたいてい冬季は凍りますから、クルーズできるのは、場所にもよりますが、長くて5月始めから10月末までです。
 レナ川も季節によっては部分的に観光クルーズ船が運航しているかもしれません。オビ川にはノヴォシビルスクからサレハルド(ちょうど北極圏の入り口のあたり)までのコースがあると、クルーズ愛好ロシア人から聞きました。ヨーロッパ・ロシアのヴォルガ方面ですとたくさんのコースがあるはずです。
 2002年は、地元のエニセイ川クルーズをしましたから、その次は『ロシアの母なる川ヴォルガ』だと思いました。昔はロシアに限らず交通は川を利用していましたから、かつて交易地点だった大小の村々も大きな川やその支流にできました。支流が本流に合流するような交易の要所にできた村は発展して大きな町になりました。また、今でも、道路がなくて川をたどらないと行けないという町や村がたくさんあります。道路や鉄道を利用するより、川に沿って行った方が、ロシアらしいロシアを見ることができそうです。
 ヴォルガ方面を選ぶ(ついでに白海・ソロヴェツキー諸島も)(付:新ラドガ運河クルーズ)
 河川交通が盛んなロシアには、川と川をつなぐ運河がたくさんあります。長くて世界的に有名なものだけでも、ヴォルガ川とドン川をつなぐヴォルガ・ドン運河(*)、モスクワ川とヴォルガ川をつなぐモスクワ運河(**)、サンクト・ペテルブルグからオネガ湖へ向かう新ラドガ運河(***)、オネガ湖から白海へ出る白海バルト運河(****)などがあります。ですから、いくつかの川や運河を組み合わせたり、支流をさかのぼったり、海へ出たりするクルーズ・コースがあって、ヨーロッパ・ロシアのコースは、シベリアのと比べてヴァラエティに富んでいます。
 
 リュドミラさん(私の右)とターニャ(1992年)
 
オネガ湖 (1992年)
 
 勲章の表には"ЗА ПОБЕДУ НАД ЯПОНИЕЙ”
(対日本勝利)とスターリンの肖像。
裏にはソ連の星と”3 СЕНТЯБРЯ 1945”
(1994年9月3日)
(次ページに地図); 
(*)ヴォルガ・ドン運河
 ヴォルガ川とドン川を最短距離で結ぶ運河。水路の総延長は101kmで、そのうち45kmが川と貯水池。 1952年完成
(**)モスクワ運河 
モスクワ川岸にあるモスクワ市とヴォルガ上流にあるドヴィナ市を結ぶ.128キロ。1937年完成。今回航行する。
(***)新ラドガ運河
 イリメニ湖から224キロ北上してラドガ湖に注ぐヴォルホフ川とラドガ湖からバルト海の一部フィンランド湾東岸に注ぐネヴァ川をラドガ湖南岸の運河で結ぶ。111キロ。18世紀前半のピョートル大帝時代にできた旧ラドガ運河に並行して、1869年に新ラドガ運河が完成。10月革命前までは『アレクサンドル2世運河』と呼ばれていた。後には旧ラドガ運河の方は繁茂したり干上がったりして通行不可。

 新ラドガ運河を 1992年6月29日から7月3日、サンクト・ペテルブルク(当時レニングラード)市の知人リュドミラさんとクラスノヤルスクから同行したタチヤーナ・ナスコーヴァさんと3人で、『英雄ユーリー・ガガーリン』号でクルーズしたものだ。6月29日、レニングラード市のネヴァ川河川港から出発し、ネヴァ川を遡り、新ラドガ運河を通り、オネガ湖からラドガ湖へ流れてくるスヴィーリ川Свирь(224キロ)を遡ってオネガ湖に入った。オネガ湖の北岸にあるキジ島の木造教会で写真を撮り、帰りのスヴィール川で、外国人用(インツーリスト)の豪華クルーズ船の横に停泊したので、そこの外貨ショップで買い物。このコースは外国人(つまり当時はお金持ちとみられていた)が多いので、沿岸には外国人にとってはそれほどでなくてもロシア人にとっては法外な値段で売れそうなものを持った売人の列が並んでいた。スターリン像と『1945年9月3日 日本に対する勝利』と刻印されたソ連の勲章まで売られていた。これを私は5ドルで購入。当時のソ連崩壊後のロシアは経済がどん底に落ちようとしていた。
 5ドルで勲章を買う前だったかその後かに、ロデイノエ・ポーレЛодейное Поле市によって、そこで修道院を見たはずだ。そこは今精神病院になっているとガイドに説明されて、当時の私は日記に書きおいていた。後で調べてみると、16世紀当時はまだ正教徒にされてはいないフィン・ウゴル人達の地にできたというアレクサンドル・スヴィーリスカヤ修道院Свято-Троицкий Александро-Свирский монастырь だった。ソ連時代、修道院は矯正労働施設の孤児院と障害者用の収容所にされていた。スヴィーリ矯正労働収容所群(1931−1937,林業や鉄道敷設に従事させられた)というのがスターリン時代にあったのだ。1953年(スターリンの死)から2007年までは精神病院だった。しかし、1997年から修復作業が始められていたのだ、だから観光客にも見せていたのか。
 復路のスヴィーリ川からはラドガ湖に入り、北岸のヴァラーム島に行く。島の見物のガイドは博学らしい老人で由来を丁寧に説明していたのだが、当時ロシア語で歴史を学ぼうというところまで行っていなかった私にはちんぷんかんぷんだった。わからないロシア語を聞いているのに飽きて、しつこい蚊の大群に悩まされ跳びはねていたので、ガイドの老人ににらまれた。島には14−15世紀創設のヴァラーム修道院がある。フィンランド・ソ連戦争時にはソ連軍の基地になり、その後は戦傷者障害者達の収容所となり、1989年にロシア正教会に戻され、修復されていた。正教の伝統で頭を覆って修理済みの僧院に入った。(以上、当時の私の日記から)

(****)白海バルト運河
 1961年までは『スターリン名称白海バルト運河』といった。オネガ湖から白海を結ぶ227キロ(48キロが人工水路)。この運河で、白海から、オネガ湖、新ラドガ運河、サンクト・ペテルブルク近くのバルト海へ通じる。ソビエト連邦政府は運河を第一次五ヶ年計画の成功の一例として示していた。1931年から1933年までにほぼ全て人力により建設された。運河はソビエト連邦において強制労働で建設された最初の主なプロジェクトである。収容所の看守が建設に関与し、10万人と推定される収容者を労働力として供給した。30分ほどの宣伝映画が当時撮影され、重々しいスターリンや果敢な労働場面ばかりが映っている.無声映画で字幕が現われる。ドイツ語のこともある。最後の字幕で『数万人の法を犯した人たちが、この労度で矯正され、正しいソ連人になった』とあって、その『正しい』ソ連人のキリリとした群像が映し出されている。(後記)

 エニセイ川クルーズの豪華客船が『アントン・チェーホフ号』だけなのに比べると、ヴォルガ方面は船も選べます。でも、夏場の豪華客船は外国人観光グループ(日本人を含む)に押さえられていて、一般ロシア人(私を含む)が予約できる船は限られていることがわかりました。
 旅行会社に聞いたり、ロシアでもそれなりに普及しているインターネットで調べたりして、6月下旬から7月上旬の期間で、あれこれとコースを検討しました。私の勤める大学の学期末試験は6月中旬までに終わりますし、7月後半には日本へ里帰りの予定です。また、クルーズの出発点モスクワまで、クラスノヤルスクから4000キロ、飛行機で4時間もかけて行くのですから2、3日程度のクルーズでは物足りないです。また、船室も、シャワー・トイレなしの旧式では、快適といえません。
 
 結局、『バシコルトスタン号でモスクワからペルミ、16日間』というのを選びました。それは、6月28日出発なので大学が休みに入ってから出発までの間、しばらく時間があります。どうせ、出発点のモスクワまではるばる行くのですから、一度は訪れたいと思っていた白海のソロヴェツキー諸島へも寄ってみたいと思いました。インターネットで調べて、6月22日に、ソロヴェツキー諸島の対岸の町ケミまで行くと、ケミから連絡船でソロヴェツキー諸島へ行って観光をして、またケミまで戻してくれるという、ホテルつき食事つきガイドつきの5日間パックツアーが見つかりました。これは、モスクワまで自力で行くだけでなく、モスクワからケミまでも自力で行き、そこで、ツアーのグループを見つけなくてはならないという難しさがあります。でも、そのパックツアーを主催しているアルハンゲリスク市の旅行会社と何度も電子メールで質問をしたり確認をしたりして、行くことに決めました。『ソロヴェツキー諸島5日間』は銀行の振込み料も合わせて35,000円くらいでした。ホテルのツインルームのシングルユースは50ドル高になったほか、外国人はさらに100ドル高と言われましたが、「私はロシアの居住許可証を持っているから、選挙権がない以外はロシア人と同じはずです」と、一応言ってみると、幸いその通りにしてくれました。

 『モスクワからペルミ、16日間』の費用は日本円にして一人約12万円です。一人用船室にはなぜかトイレとシャワーがなく、トイレ・シャワー付きの二人用船室を一人で使うと50%増し18万円といわれました。これは、クラスノヤルスクの旅行会社を通じたのでこれだけ高くなったので、もし直接モスクワの窓口へ行けば、もっと安かったでしょう。

 クラスノヤルスクからモスクワへ、ソロヴェツキー諸島を回って、またモスクワへ
白海を行くと見えてくるソロヴェツキー島
ソロヴェツキー町に
スパソ・ペレオブラジェンスカヤ修道院中庭
 
島内の湖を結ぶ運河は重要な交通路
ボートをこぐのはアメリア人 
 6月21日、午前9時にクラスノヤルスクを立ち、4時間飛んで、モスクワ時間午前9時にモスクワのドモヂェドヴォ空港に着きました。そこから電車と地下鉄を乗り継いでレニングラード駅(モスクワ発で、サンクト・ペテルブルグ行きなど北方面の列車が出発する駅)に着きました。そこでケミ行きの列車が出発する夕方まで待たなくてはなりません。駅の荷物一時預かり所に、私の3週間の「大」旅行にしては最小限におさえたかばんを預けて、外へ出てみると、駅の周りは、人相の悪い人たちがうろうろしています。露店も多くごみごみしています。あまり知らないモスクワで迷子になって、列車の出発までにレニングラード駅まで戻って来れなかったら大変です。『大』旅行を前にして、モスクワ観光の気分にはなれなかったので、駅の中の喫茶店で、時間を過ごすことにしました。 モスクワのレニングラード駅から、北氷洋のバレンシア海に面する不凍港ムルマンスク行きの列車に乗ると、27時間後に途中のケミ駅に着きます。(帰りは急行だったので25時間でした)。
 ソロヴェツキー諸島旅行も印象深いものでしたが、また別の機会に書きたいと思います。実は最も印象深かったのは寒かったこと。新聞紙を服の間に挟みました。そして、運河が多かったこと。そして、同じツアーグループに年配のアメリカ人とその若いロシア人の妻がいたこと。保険員だというそのアメリカ人はロシア語をしゃべらなかったが、目を合わせる度ににっこり微笑んでくれた。これが自分のロシア語だという風だった。
追記;ソロヴェツキー諸島は2003年と比べて、今は観光客がぐっと多くなったそうだ。15世紀、隠遁者の修道院から始まり、極北の聖地となった。革命後は政治犯の有名な収容所であり(ソ連で正式には始めて矯正労働収容所ができたという。『聖地ソロヴェツキーの悲劇、ラーゲリの知られざる歴史をたどる』というNHK出版物もある)、ソ連崩壊後にはまた正教会修道院として復活した。私の訪れた2003年は、まだ復興が途中だった。2015年サンクト・ペテルブルクからコミのスィクティフカルへ行ったとき知り合い、その後も連絡を保っているジェーニャ・ストレリツェフは、ソロヴェツキー島のファンだ.彼は30代だから2003年はまだ訪れてないが、成人してからは毎年訪れている、現地から絵はがきも日本の私に郵送された。左写真)
白海は風が強く波立っていて
夏でも寒い
 
 ジェーニャがソロヴェツキーから
送ってくれた2015年9月22日付
『ソロヴェツキー海洋博』
の葉書
 

 モスクワから出発した列車でケミと言う白海に面した小さな知らない町で降り、もし、電子メールで確約されているはずのガイドの迎えがなかったらどうしょうか。と、不安いっぱい列車から降りたのですが、一応計画通りに旅は運び、迷子にもならず、6月27日には、無事またレニングラード駅に戻れました。

 翌日のクルーズ出発まで、北モスクワ河川駅近くのホテルに一泊しました。この程度の時間的余裕を持つことが、時刻表どおりに動いてくれないことも多いロシアの交通機関を利用する旅行には必要です。というより、今回はそれ以上ぴったりの日程は組めませんでした。このように余裕を取って日程が組んであるときに限って時刻表どおりに運行して待ち時間が多く、余裕のない組み方のときには遅れてはらはらするものですが。

 28日、出航時間の17時半よりずっと早く、北モスクワ河川駅に着き、バシコルトスタン号を探しました。クラスノヤルスクのエニセイ河川駅では、客船用岸壁は短く係留点も数箇所だけです。ところが、モスクワでは4階建、5階建の豪華クルーズ船が岸壁に十数隻もずらりと並んでいます。その豪華船の向こう側には、別の豪華船が平行して2重に舫(もや)っています。それらの船へ外国人を満載した大型バスが次々と横付けしています。持ち物やファッションから、ロシア人と西ヨーロッパ人の区別は簡単にできます。それらクルーズ船には英語とロシア語で「モスクワからサンクト・ペテルブルグへ、白夜の旅、○○旅行会社」とか大きく書かれてあります。
 ちょっと自分が貧しいロシア人の田舎っぺのような気がしました。それも悪くありませんが。
 埠頭のある岸壁の端から端までは1キロ半もありそうでしたから、歩いてバシコルトスタン号を探さずに、インフォーメーションで目当ての船が停泊している埠頭番号を聞きました。バシコルトスタン号は3階建で、ソ連時代には一般旅行者用の中程度の船だったのを、時代に合わせて少し景気のよいロシア人が乗るように改造されたと言うかなり古い船でした。定員は半分に減った分だけ一つ一つの船室は広く快適になったようです。私が予約したのはツインルームのシングルユースですが、そうでなければ、知らないロシア人と同室にされることもありえるのです。船室には小さな冷蔵庫もあり、エアコンはありませんが扇風機があります。窓は上下開閉式の大きなものでしたが、私の力では開きませんでした。開けたい時は船員さんに頼みます。シーズン中は外国人旅行会社が貸し切っているらしい周りの豪華客船と比べると、バシコルトスタン号は外見も中味も、つまりサービスもB級のようですが、実は、今回は、このような船にこそ乗ってみたかったのです。
北モスクワ河川駅。出港前
途中の寄港地。バシコルトスタン号と、
レストランで同じテーブルのアンナ

 9割ほど満席で、乗客は70,80人くらいでした。チェックインの後、レストランの座席券を渡されました。レストランのテーブルは4人用なので、老夫婦のカップルと一人旅の男性との組み合わせでした。乗客の中に外国人は私以外に一人もいません。慎ましやかな船でしたから、年配や中年の夫婦連れ、中間管理職タイプの熟年女性の一人旅、親子連れ、孫と一緒のおばあさんといった乗客の顔ぶれでした。若い夫婦のカップルは一組だけでした。華々しいロシア・ニューリッチはトルコへ行ったりキプロスへ行ったりで、地味な国内旅行はしないのでしょう。また、年金だけで暮らしている老夫婦や、月収が平均以下の家庭では、クルーズといった豪華旅行はなかなかできません。クルーズができるほどのお金を貯めた若い人たちは、ヨーロッパ格安ツアーに出かけます。そういうわけで、バシコルトスタン号の乗客の平均年齢はやや高く、それほど豊かではないが、貧しくもないという層でした。そして、ふたりを除いて、みんなモスクワかその近郊出身でした。また、私を含めて大部分の乗客がクルーズ愛好家で、今回が初めてではないと言っていました。 
 日本の旅行者ならみんな持っているデジカメや小型ビデオカメラなどといったものは一人も持っていませんでした。大きな旧型日本製ビデオカメラを持っていた人が二人、「ゼニット」と言う旧ソ連時代の国産カメラを持って手動で距離や露出をあわせる年代物カメラの熟年女性たち、また国産「超筒長」双眼鏡で対岸をのぞく老夫婦と、みんな復古調でした。手動カメラなんてほんとうに懐かしいです。私はあわせ方は忘れてしまったので、そのカメラでその人たちをあまり撮ってあげることはできませんでした。でも、私の普通のデジカメでヴォルガやカマ川、沿岸の町をバックに、「ねえ、私を撮って」と言って近くにいる人に撮ってもらいました。
 レストランで同じテーブルに座り、16日間毎日一緒に食事をしていた老夫婦のマルクとアンナや、一人旅の中年男性サーシャとは、最も親しくなったので、私を写すカメラマンになったのも、彼らが一番多かったです。特に、サーシャは機動性があったので必要な時にはいつも横にいました。でも、彼のロシア語は、私にはよくわからないことが度々ありました。早口で不明瞭な話し方、俗語を使った言い回しが多く、外国人にわかるような言い換えができなかった(したくなかった)ようで、何度も、アンナにロシア語からロシア語に「訳して」もらいました。
 その3人の他にも、ほとんどの乗客と仲良くなりました。
 このクルーズのコースは、北モスクワ河川駅を出発し、モスクワ運河を経てヴォルガ川に出て、ヴォルガを下りカザン市を過ぎたところで、一番大きな支流のカマ川に入り、カマ川をさかのぼりウラル山脈の西にあるペルミ市まで行って、そこから同じコースでモスクワへ戻ってきて解散、ということになっています。毎日、一つか二つの町に上陸して、観光しながら行くことになっています。ロシアの母なる川ヴォルガは、昔から主要交通路で、村や町はヴォルガに沿ってできていったのですから、川を下るだけでも、『ロシア歴史の旅』ができます。
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