クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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up date  2003年8月28日  (追記:2006年6月6日、2008年6月24日、2019年1月7日、2019年11月14日、2020年7月27日、20222年3月15日)
モスクワからペルミ市へ
6-3      ヴォルガ川とカマ川クルーズ(その3)
                       2003年6月28日から7月13日
Круиз по Волге и Каме c 28 июня по13 июля 2003года
1.出航まで(前の前のページ)
   ソロヴェツキー諸島を回る
   バシコルトスタン号と船客
2.ヴォルガ川を下ってカマ川を上る(前ページ)
   モスクワ運河、ウグリッチ、コストロマ
   乗客のジェーニャ、閘門また閘門
   橋ぐらいは・・・。ゴロディーツ
   旧ゴーリキー市、チュヴァシ
   エラブーガ、サラプール
3.折り返し点ペルミから
   シベリアの出入口、ペルミ
   クルーズの楽しみ方
   大作曲家チャイコフスキー
   チストポーリ
   イスラムのカザン
   仕事っぷり
   マカリエフ修道院
   芸術の町プリョース
   ねずみまち
   ロシア式
   閘門で飛び降りるか
   到着

3.折り返し点ペルミから
 シベリアへの出入口、ペルミ
 8日目はいよいよ折り返し点ペルミです。ペルミとモスクワの時差は2時間もあるのですが、私たちの時刻表は常にモスクワ時間でした。到着後、市内観光が終わって、自由時間になったときは、モスクワ時間ではまだ5時でしたが、ペルミ時間では7時で、もう博物館や食料品以外の商店などは閉まっていました。それで、モスクワ時間で生活している船客たちは夕方、時間を持て余してしまいました。
かいがいしいサーシャ
 
 武器博物館
ペルミ河川港近くで、川にはまっている車がある
とサーシャが教えてくれた
「クングール1663年』とある
 『氷の洞窟』入り口
 
「ねずみ」洞窟内では多くの写真を撮ったが、
どれも自分しか写ってない。
この偶然のフォルムだげが撮れていた

 市内観光では、いつものように教会のほかに、野外武器博物館と言うところへも行きました。第2次世界大戦中の戦車の模型でも置いてあるのかと思いましたが、もう少し新しいのがありました。説明プレートに『大陸間弾道ロケット、核装備0.6メガトン、1968 年装備、76年廃棄』などと書いてあります。サーシャなどは、私に
「ほら、これも撮って、あれも撮って。どうだ、すごいだろう」と自慢げです。ロシア人はぱちぱち撮っていました。ロシアの各地ではよく、こんな展示物の会場を見かけます。
 ヨーロッパとアジアを分けるウラル山脈のヨーロッパ側にあるペルミは、シベリア街道の入り口です。昔は、ロシアを東西に横切る時は、私のように水路ペルミまで来て、そこから、陸路(正しくは連結水路、分水嶺では船を陸に挙げて曳き、東側の川の支流に入る)、何日(何ヶ月)もかけて太平洋岸(オホーツク海)の方へ行ったものです。ペルミから太平洋岸までの、だいたい中間の地点が私の住むクラスノヤルスクです。江戸時代の漂流民が、皇帝に謁見するためにサンクト・ペテルブルグに連れて行かれた時は、私と逆のコースで、オホーツクからクラスノヤルスク経由、ペルミを通っていきました。
 ペルミ市には『シベリア通り』というのがあって、ここがシベリアへの出発点となっていたのです。ロシア帝政時代のシベリア流刑囚も、ここにいったん集められたそうです。(後記:シベリア通リはカマ川左岸、市内では南東にあってシベリアに延びている。ソ連時代はカール・マルクス通りと言われたが、1998年元の名前に戻った)。
 ペルミ市では船も一休みで2日間停泊です。2日目、私たちはバスでシベリア街道を、奥へ奥へと100キロばかり進み、クングール Кунгурという町(6万5千人)へ行きました。途中、なだらかな丘陵地帯が続き、モスクワ出身のクルーズ客は
「2000キロも航行してきたのに、我が家のあたりと変わらないではないか」と言っていました。
 クングール山には有名な洞窟があります。夏でも氷点下の『氷の洞窟』(プラス5度からマイナス2度のチルドの温度、湿度は100%)と言って、18世紀頃から探検され、20世紀の初めにはもう観光名所となっていました。深さは27メートル、延長は5700メートルです。そのうち、現在、観光客用ルートは1キロ半もあり、途中、『ダイヤモンドの岩窟』、『大隕石の丘』、『北極の空』、『ダンテの森』、『海底の広場』、『珊瑚の岩窩』などと言う美しい名前がつけられた幾つもの『名所』を通り過ぎます。「点滴岩をも穿つ」ということわざがありますが、それを証明している岩を見たり、よく滑る『貴婦人の涙坂』を通ったり、エメラルド色に照明された洞窟湖に祈願のコインを投げたりしました。何も投げてはいけない洞窟湖もあります。洞窟内の暗さを知って下さいと、ガイドが明かりを消して真っ暗闇にしました。神秘的です。
 後記:クングール洞窟はカルスト洞窟では世界7位の長さ。58のグロットгрот(洞窟内の広間というか?)があり、そのうち最も高いのは22メートル。70の湖がある。1万年から1万2千年前にできた。

 入り口の売店で買い求めた『洞窟学』と言う本によると、ロシアには7000以上の洞窟があるそうです。「その中には世界有数の巨大洞窟もあり、特に、クラスノヤルスク市の東南200キロのオレーシナヤ村付近にある洞窟は、長さ58キロ、高低の幅240メートルで、超迷路である」と書いてあります。私の住んでいるところの近くのあのオレーシナヤ洞窟が世界第一級とは、初めて知りました。
 シベリアにあるものは、洞窟に限らず地下資源もまだ未開発のものが多いです。オレーシナヤ洞窟は専門家用で、観光名所にはなっていませんが、地元の専門家(学校の先生)が希望者の生徒を連れて入っているようです。かなり以前のことですが、私も生徒と一緒に誘われたことがありますが、その頃はよく分からなくて断りました。

 マルクとアンナは、いくら、整備されているとはいえ、1キロ半も氷の洞窟内を歩けないと思って、パスしました。それで、私の安全保障をサーシャに委任し、無事連れて帰るよう言い渡しました。そのせいか、サーシャは、バスの座席を確保したり、私が興味を持ちそうな本を見つけたり、洞窟内での写真係を勤めたりと、かいがいしく私の面倒を見てくれました。一緒に行ったクルーズ客は、船に帰ってからアンナたちに
「サーシャは言いつけをよく守りましたよ」と、冗談交じりにほめたくらいです。
ペルミ市の書店で買った『カマ川の畔』表紙の肖像画は タティーシェフ (政治家・歴史家、トリアッチ市、エカテリンブルク市、ペルミ市の基礎を築く)
後記:    
 ペルミ市の書店で買った子供用の『カマ川の畔』という本(左)によると(2018年12月に再読したのだが)、25万年から30万年前の更新世のころは、カマ川はヴォルガには注がなくて、まっすぐ古カスピ海に注いでいた、とある。ヴォルガ川の流れができたのはその後の時代だ。2万5千年から3万年前にはカマ川流域に人類が住み始めた。青銅器から初期鉄器時代の住居跡はカマ川やその支流に多い。
 7-10世紀のペルミ動物文様は有名だ(スキタイ文化の伝播ともいわれている)。
 
 テェルク系やスラブ系語族の移り住む前にはそうしたペルミ動物模様を作っていたウラル系の語族がいた。カマ川地方にはコミ・ペルミャン族、つまりフィン・ウゴル語族のコミ・ペルミ諸派が住んでいた。「ペルミ」という言葉は、コミ・ペルミャン族のパルマРарма(濃く茂った森、針葉樹林)から来ているのかもしれない。または、現在はオネガ湖とラドガ湖の間に住む小さな民族(かつてはウゴル族中でも大きかった)のフィン系ヴェプシ語の「後ろの地」から来た地名かもしれない。
 9世紀ころのルーシの年代記では北ロシアのフィン・ウゴル系部族の一部をチュヂとよんでいる。(後に、2015年、コミ共和国に旅した時にはチュヂ伝説についてより詳しく知ったのだが。)
 14世紀の文献にはこの地方の『大ペルミ国』はノヴゴロド国に貢納していたとある。またステファン・ヴェリコペルミスキィ(ペルミの偉大なるステファン)のロシア正教の伝道もウラル北西のペルミ・ペルミ諸族の間で語り継がれている(ロシア正教側のステファンの側から見ると異教徒の物語も多い)。
 15世紀ペルミ地方は有名な製塩業者ストロガノフ家の所有地となる。ストロガノフ家は皇帝から東部の防衛と東部への進出も受け持つことを許され、16世紀末のエルマークのシベリア・ハン国征服も行った。ペルミ地方は当時ロシアで不足していた塩が発見された地でもある。
 ちなみに、地質年代の古生代の終わりがペルム紀 Permianというのも、1841年英国の地質学者ロデリック・マーチソンによって名付けられたからだ。この地方で、後にこの名で呼ばれることになるペルム紀の生物が最初に発見された。
 1723年ピョートル大帝の命により、上記本の表紙にあるタティーシェフТатищев В.Н.(1686-1750)(右上写真)が銅の精錬所として現在のペルミ市の基礎を作った。エカチェリーナ2世時代にはペルミ県の総督所在地となった(1780年)。同書の後半は戦争と革命の記念碑の説明のみなので省略。


 クルーズの楽しみ方
 9日目、ペルミを出発して、また船の甲板からカマ川を眺める生活に戻りました。クルーズも後半になると少し退屈してきます。船のスピードは平均時速20キロです。景色の移り変わりは余り変化に富んでいるとは言えません。ジェーニャに、
川面に写る岸辺と船の出す波
 テーブルには必ずウォッカの瓶が
「クルーズって単調ね」と言うと、
「いやいや、景色は微妙に違ってくる。また、村が見えてくれば地図で調べるのも面白いし、果てしなく森や草原ばかり続くところでも、よく見ると、電柱が見える。つまり、どこかへ電気を引いてゆくのだ。カマ川の景色は、ヴォルガとは全く違う」のだそうです。また、16日間のクルーズで「ゆったりとした川岸風景を見ながら、モスクワでの気ぜわしい日常生活を忘れることが大切なのだ」そうです。さすがロシアです。日本で現職の人が、仕事と俗世間をつかの間でも忘れ、気分転換をするために16日間のクルーズに出かける、というわけにはなかなかいきません。

 夜、月がかかっていたことがありました。月光が水面に写り、長い「月からの小道」ができました。月が低く上がって、水面に波のない夜ですと、特にくっきり見えます。『月の小道』を見ていると、今から、何か昔物語でも始まりそうな感じになります。

 毎日、私たちは甲板をよく歩きました。手すりに寄りかかって、船の縁が水面を掻き分けた後にできた緩やかな波を飽きずに眺めていました。そんな時など、ふと、隣にいる人に話しかけたり、話しかけられたりします。たいていは景色や天候のことが多いのですが、たまに、難しい話題のこともあります。
 船客に、シロコラット氏という戦争史について本を書いているという人がいました。私が日本人だと知ると
「千島列島は歴史的に日本領ではなかった。北千島だけでなく南千島も、ロシア人探検家によって調査されたのである」と切り出してきました。長くロシアにいると、小さな地方紙の記者から、列車の中で知り合ったおじさん(職業は国防関係だったのかもしれない)まで、この話題を持ち出します。いちばん無難な答えは、モスクワの日本大使館から出ている北方領土に関するパンフレットに書いてあったことを引用して、「日本政府の見解では一応これこれしかじかです」と言うことです。でも、クルーズのような、のんびりした旅では、その歴史著述家のシロコラットさんと、カマ川やヴォルガ川を見ながらオホーツク海のことを議論するのもおもしろいものでした。私たちが議論していると他の船客も寄ってきます。
「シロコラットさん、あまりタカコ(私)をいじめてはだめですよ。」などと言っていきます。

 大作曲家チャイコフスキー
 10日目の寄港地はチャイコフスキー市でした。大作曲家のチャイコフスキーはこの町には関係がなく、対岸の隣町で生まれただけです。でも、一応、町には、チャイコフスキーの銅像が建っています。昔、ここにはサイガットカ村 Сайгаткаと言う200軒ばかりの村がありましたが、1954年にカマ川をせき止めてできた巨大なヴォットキン・ダム発電所町として名前を変えて大発展しました。でも、今は、ロシアの多くの町と同様に寂れています。

チャイコフスキー市の親切な本屋の店員さん
チャイコフスキー象の前で
水浴びが大好きなロシア人たち
 この寄港地では特別な観光なしで、自由時間があっただけでした。私は中央郵便局を探し当て、そこから、日本の家族に国際電話をかけました。長い間、音信不通でしたから、ちょうどよいころあいでした。
 電話のかけ方は簡単ではありません。まず、窓口で余計目にお金を払い、指定の電話ボックスに入り、重くて黒い受話器をとってダイヤルを回します。相手方が返事をしたらすぐ指定の番号を回し、通話モードにしてからやっと話せます。終わると、また窓口へ行って、お釣りを受け取ります。日本にあるような電話ボックスは、壊されるのか、ここ何年もロシアでは見かけません。
 家庭用電話回線が余り普及していないロシアでは、最近、携帯電話がかなり普及しました。モスクワ地方を本拠とする安い携帯電話会社の地方進出で、一般のロシア人でも手が届く値段になったからです。クラスノヤルスクでも、去年ぐらいから急速に普及し始めました。医師や教員の給料は、平均以下ですが、そんな人たちの間でもぼちぼち同僚の間でも携帯を使う人が増えてきました。
 郵便局の後、例によって、本屋を探しました。町で1軒しかないらしく、「本屋」と言うだけで、すぐ見つかりました。市に関する本はありません。でも、チャイコフスキー市の本屋の店員は、サラープル市同様とても親切で
「せっかくだからチャイコフスキーの像が見たい、どこにあるか教えてほしい」と私が言うと、ちょうど、自分はその方面へ行くからと、わざわざ案内してくれました。途中、町の説明もしてくれました。その人の年齢はこの町と同じだそうです。つまり、1954年生まれです。以前、ソ連経済の景気のよかった頃は、3方がダム湖で囲まれたこの町に観光客が多く訪れたそうですが、今は、チャイコフスキー記念中等音楽学校の剥がれた外壁の修理もできないくらい市の予算が乏しいそうです。

 私はそれなりに、この町を自力で観光をしてきましたが、他のクルーズ客は埠頭横の砂浜(つまりダム湖)で海水浴(川水浴)を楽しんでいました。私の知り合いのロシア人は水と見れば、すぐ服を脱いで(水着があれば即、着替えて)浸かったり、体を焼いたりします。ほほえましいものですが。
 モスクワ出航以来寒かった天気も、少し夏らしくなりました。
後記
 前記『カマ川の畔』の本には、ペルミ地方のロシア人の市が古い順に載っている。コミ・ペルミャン族が住んでいた北部にあるチェルディニ Чердыньが、1451年の文献に初出だ。チェルディニはコミ・ペルミャン語で『支流の河口』という意味だ。また、16世紀初め頃まで独立国であった大ペルミ公国の首都でもあった。大ペルミは14〜15世紀にノヴゴロド共和国の一部コミ=ペルミャク人の封建政体(国)だった。現在のコミ共和国(2015年に実際に訪れた)にあったヴィチェグダ・ペルミ国(小ペルミ)と同様、9-10世紀よりノヴゴロド共和国に貢納していたが、独立国だった。小ペルミのロシア正教への改宗(これはロシア正教国のモスクワに従属の意味)の後も、大ペルミはモスクワ、ノヴゴロド、カザン・ハン国の間で独立を謳歌していた。15世紀後半には、モスクワ公国に征服され、モスクワ公国の支配下で自治を認められたが最終的には1505年に併合された。 
一方、『カマ川畔』に位置する集落リストにはチャイコフスキー市は最後に載っている。前記のように、サイガットカ というカマ川に埠頭のある村が1954年、チャイコフスキーと改名したのだ。市としては最も新しい。

後記2:
 ヴォルガ川やカマ川には多くの発電所と広大なダム湖が作られて、元の川幅はすっかり変わっている。
 ロシア内25位に入るような巨大な発電所とダム湖だけでも、カマ川に3カ所、ヴォルガに6カ所ある。カマ川の方は上流から、カマ発電所のカマ湖がある。カマ湖はカマ川にダムを築き350キロの長さと幅は最大14キロあって、面積は1910平方キロ。これはペルミ市にある発電所より上流のいくつかの支流も100キロ以上水没しているからだ。
 その下流はヴォートキンスク発電所とダム湖で、発電所はチャイコフスキー市にある。ダム湖の面積は1120平方キロ、最大幅は9キロ、長さ365キロで、ほぼ上流のカマ発電所まで届いている。発電所とダムの名称となったヴォートキンスク Воткинск市は、実は、ウドムルト共和国のヴャトカ川畔にあって発電所やダム湖とは30キロも離れている。チャイコフスキーはこのヴォートキンスク市で生まれ、10歳になるまで過ごしたので、チャイコフスキーの博物館もヴォートキンスク市にある。こじつけられたように命名された発電所名とダム湖名、それに市の名前だ。
 その下流は ニージェカムスカヤ発電所 Нижекамская ГЭС(下流カマ川の意)は、往路に寄港したエラブガ(カマ川右岸)の対岸のナベレジニエ・チェルヌィ Набережные Челны(カマ川左岸)の近くにある。
 カマ川がヴォルガに注ぐ合流点にはロシアで最も広いクイブシェフ・ダム湖があって、ヴァルガをせき止めてできたジュグロフスカヤ発電所は合流点よりずっと下流のジュグリョーフ市とトリヤッチ市の間 между городами Жигулёвск и Тольяттиにあるが、私たちのクルーズのコースはカマ川の方へ入ったので、そこまではいかなかった。が、もしヴォルガをさらに下るとサマーラ・ダム湖やヴォルゴグラード・ダム湖を通ってカスピ海に出られる。
 一方、私たちのコースのカマ合流点からヴォルガを、来たときのようにさかのぼれば、チョボクサルスコエ・ダム湖や、ゴーリコフスコエ・ダム湖(ニッジェゴロツカヤ発電所)、私たちのヴォルガ・コースの出発点となったルィブナヤ・ダム湖などがある。私たちのクルーズのプログラムは往路と復路は同じだが、もちろん変化を持たせて上陸地が異なっていた。



 チストポーリ
チストポーリの クイブシェフ・ダム湖で
 11日目の寄航地はチストポーリ市というなじみのない名前の町でした。行きに通ったエラーブガ同様、タタルスタン共和国にあります。タタルスタン共和国の首都カザーニ(カザン)から140キロ南東にあってカマ川左岸にあります。というより、クイブシェフ・ダム湖の上流、つまり、かつてはカマ川岸にあったのです。ノーベル文学賞のパステルナークが1941年から43年まで疎開してきたところで、パステルナーク記念館がありました。記念館にはソ連時代抑圧された作家のドキュメント集(国家安全保障委員会付属文書保管庫にあった生のもので、今まで未公開だった)が売っていました。難しそうですが一応買っておきました。
後記:チストポーリ Чистопольとは チーストエ・ポーレ Чистое поле(広い野原の意)から来ている。18世紀からの古文書に載っているそうだ。人口6万人余。
この近くにジュコティンЖукотин、またはジュケタウ Джукетауという遺跡がある。10世紀ごろからあるヴォルガ・ブルガールの主要な都市の一つだった。モンゴル軍やルス軍に破壊されたが、13世紀後半から15世紀前半までジュコティン侯国の首都だった。
 イスラムのカザーニ(カザン)
 12日目はタタルスタン共和国首都のカザン(ロシア語でカザーニ Казань、タタール語ではカザン Казан)です。レーニンがこのカザン大学で学んだことは有名で、大学前には学生レーニンの銅像もまだありましたが、私たちの観光バスは通り過ぎただけでした。観光はカザン・ハン国のクレムリンからはじまりました。
 
 カザニのクレムリン跡
 
 カザニのモスク
(下部は修理中なのか板囲いがしてあった)

 カザン・ハン国は、ジンギスカンの孫バトゥの建てたキプチャク・ハン国(金帳汗国)が衰えた15世紀頃、そこから独立して、ヴォルガ中流域にカザンを首都としてできました。同じ頃、キプチャク・ハン国から独立して、ヴォルガ下流にアストラハン・カン国、クリミヤ半島にクリム・ハン国、ウラル南東にシビル・ハン国などができています。新興国の首都カザンは交通の要所にあったので、ロシア、ヴォルガ周辺、中央アジア、シベリア、ペルシャなどからの商品が集まり、大商業都市として繁栄した、と『中学生のロシア史』に書いてあります。カザン・ハン国の収入源は、それだけではなくロシア諸侯からの税金や貢物もあったのだそうです。
 しかし、以前は東北の僻地のモスクワ周辺だけが領土だった小さなモスクワ侯国がしだいに強大化し、まわりの封建諸侯国を征服統一し、モスクワ大公国として拡大し、カザンに貢ぎ物をしなくなっただけではなく、16世紀中ごろにはイワン4世がカザン・ハン国を征服併合し、ロシア帝国の一部にしてしまいました(この時からロシアは超多民族国家になったともいわれている)。同時に、カザン・ハン国の(被征服民であった)チュルク語系のチュヴァシ人やフィン・ウゴル語系のウドムルド人、マリ(旧チェレミス)人などもロシア帝国の支配下に入りました。
 かっては代表的なイスラム文化の都市だったカザン市には立派なイスラム寺院が幾つもあります。でも、その後はロシア帝国の一地方になったので、華麗なモザイク模様のイスラム寺院の隣にもっと立派なロシア正教寺院が建っていて、三日月型のある尖塔とロシア正教の八端十字架を同時に一枚の写真に撮ることができます。私達ロシア人観光客は、十字架の方をお参りしていました。
 最後に、町一番の繁華街で解散になり、みんなぞろぞろと散っていきました。チュワシ共和国の首都チェボクサリはコンパクトで静かな町でしたが、タタルスタン共和国の首都カザンは百万都市で賑やかで、目抜き通りを歩くと、小さなモスクワにタタール文化を加えたという感じだた思いました。
 その目抜き通りにある大きい本屋の前には、イスラム教の広報本がたくさん並んでいました。興味を持って立ち読みしていると、イスラム教徒系女性が新聞をくれます。私をイスラムに勧誘しているのかもしれません。この本屋で、中学校で使う『別冊イラスト年表付きタタルスタン史』を見つけました。最近、各(民族)共和国の中学生の教科でロシア史の他に地元共和国史が必修科目になったそうです。でも、クラスノヤルスク地方は共和国ではないのでロシア史だけでいいのです。それで、他の共和国史は売っていません。ここにしか売っていない本を買って、私も大満足。後で同じテーブルで食事しているマルクに見せると、2、3日貸してほしいと言われたくらいです。
 後記
 タタールは1930年代の大粛清時代、多くの犠牲者を出した。今でも、モスクワに対してやや独立的で、ロシア連邦内の(民族自治)共和国の首長は大統領という称号を名乗ってはいけなくなったのに、タタルスタンの首長だけは大統領と名乗っている。
 後記2:
 
カザンは人口ではロシア連邦第5位(2020年、125万7千人)。ヴォルガ・ブルガール時代に辺境の地の要塞としてできた。2005年に1000年祭を催している。ロシア連邦『第3の首都』として名乗りを上げている。他に、エカチェリンブルク、ニージニィ・ノヴォゴロド、オムスクも『第3の首都』を主張している。(第2はサンクト・ペテルブルク)

 仕事っぷり
 私以外でデジカメラを持っていたのは添乗員のアレクセイだけでしたが、寄港地で観光中、彼のカメラ用電池がきれたというので私の予備の電池を貸してあげ、大感謝されました。アレクセイ君に関しては、クルーズの後半には、仕事っぷりがとても悪いと言うので、船客の間で評判が悪くなりました。と言うのも、はじめのうちは、今見えている村や町の由来や観光案内を、船内放送でそれなりにしていたのですが、そのうち、寄港地への到着と出発の案内、食事の案内だけになり、
「そんな添乗員なら、私にでもできるわ」と乗客たちから言われていたものでした。今回のカザン市から、美人の若い女性が乗船したのですが、いつも、アレクセイ君と一緒にいます。それで、彼女が、彼の『同伴者』であることが、乗客中に知れました。仕事に個人的な同伴者があってもなくても、あまりこだわらないのがロシア風です。でも、アレクセイ君はその女性とクルーズをたっぷり楽しんでいる様子で、それ以後、乗客の世話をあまりしなくなりました。そればかりか、15日目の最後の寄港地で、彼女と一緒に上陸し、そのまま戻ってこなくなったこと(モスクワに緊急の用事があったとか云々)で、さすがロシアと思いました。
 仕事に家族が付いてくるのはよくあります。たとえば、バシコルトスタン号の乗組員で船内の大工さんのような仕事をしていた男性は2歳くらいの坊やと一緒でした。お父さんの仕事中、三輪車に乗ってぐるぐる回っていたり、他の船員や乗客にかわいがってもらっていました。途中すれ違う貨物船では、船員たちは妻子同伴らしく、奥さんたちは洗濯をして甲板に干していました。

 カザン市は今まで下ってきたカマ川がヴォルガに合流する地点の近くにあります。ですから、そこを過ぎるとヴォルガをさかのぼることになります。閘門でも、下流から上流へ行くので水位をあげます。井戸の底から上の方へ船ごと、ぐぐっぐぐっと上っていくのは、下がるより気持ちいいです。

 マカリエフ修道院
 13日目はマカリエフ村へ寄港です。マカリエフ村は、ヴォルガの見晴らしのよいところにあり、まだ遠くの方からでも、巨大な修道院の建物が見えてきます。15世紀、聖マカリエフが世の雑踏から遠く離れたこの地に小さな修行用の小屋を建てたのが始まりだそうです。19世紀から革命前までは女子修道院になっていました。
 船が寄港すると、物売りがたくさん寄ってきました。干物の魚、干しきのこ、蜂蜜、花の花粉などを勧めます。蜜房から集めたこの花粉はビタミン豊富で体にいいからと他の乗客も買っていました。私も買いました。もっとも、特にここで買わなくても、どこにでも売っているのですが。

遠くからも見えるマカリエフ聖トロイツキー女子修道院
 修道院は、ロシアでいくつも見ました。高い長い壁に囲まれ、内部には教会や塔、膳部(食堂)を始めいくつもの建物があります。たいていは、ソ連時代の荒廃から修復されつつあります。この修道院も、革命後、孤児院や事務所、監獄として使われ、戦時中は病院、その後は、獣医中等学校、穀物倉庫、家畜小屋でした。倉庫や家畜小屋にまでされてすっかり荒廃し、とうとう1957年にはこの有名な文化遺産も、『使用』不能になりました。でも、その後『本来の』管轄機関であるニージニ・ノブゴロド府教管区に委譲され、女子修道院として復興されてからは、国指定文化財の部分は国の予算で、宗教的な部分は、信徒のお布施で修復されているのだそうです。観光客もお金を落としていくでしょうし。
 ガイドの修道女は低い声で話すので、私でなくても、理解できません。
「もっと、大きな声でお願いします」と客が言ったのに、
「耳をすませて聞けば、聞こえるはずです」と、答えていました。修道女らしいです。女子修道院は女性しかいないのかと思っていましたが、トップは男性です。二人いるそうです。

 芸術の町プリョース
 14日目の寄港地はヴォルガの高台にあり、川の流れと対岸の森と青い空が見渡せる美しい町プリョース市です。ヴォルガ沿岸にある町や村は、戦後の新興工業都市を除くと、どれも17世紀以前に開かれたことになっています。プリョース市もそうです。
 プリョース市を望む丘の上から
 16世紀にカザン・ハン国を攻め滅ぼすため、ロシア側はここに軍隊を集合させました。19世紀になると、プリョースはヴォルガ河川運行の要所にある商人の町として栄えました。ヴォルガの船曳人夫や船荷運び人夫も多く住んでいたそうです。その後、河川港としてはあまり地形のよくなかったプリョースは、商業都市としては寂れましたが、有名な画家レビタンがこの地に住んで芸術活動をすることになって以来、芸術都市として名をあげるようになりました。風景画家たちのメッカになったのです。今、レビタン記念博物館の他、画廊や、青空絵画市場もあります。

 この町の背後にある小高い丘に登りますと、青いヴォルガが対岸の白樺林の下をゆったり流れていくのが見えます。何と言う美しさでしょう、ヴォルガは船上から見ても山岸から見ても美しいと驚嘆していると、足元にごみが落ちています。ロシアの自然は雄大で、見る人の心を広く、すがすがしくしてくれますが、このガラス瓶のかけら、空き缶、ペットボトルには参ってしまいます。それを、ガイドに言うと
「ごもっともです」と言う答えです。横からターニャが
「彼女(私のこと)は日本からの旅行者よ」とガイドに言い訳していました。日本はごみ処理に努力しているという評価がロシアではあるようです。ロシアのゴミの散乱にはなかなか慣れることができません。

 ねずみまち
 教会の鐘楼の上から
 
 波止場ではネズミのグッズを売る屋台
 
 ネズミさん達と
 
 バザールで売っていた子豚
 15日目は最後の寄港地ムィシュキン市でした。『ムィシィ』と言うのはネズミで、昔、モスクワ大公が毒蛇に噛まれそうになったのを、ねずみに助けられことからつけられた名前だそうです。埠頭近くの青空市場には、ねずみ関係のお土産品がぎっしりと並んでいました。小さな男の子も、せっせと粘土のねずみに目やひげを描いて売っています。埠頭にクルーズ船が着くと、男女の着ぐるみねずみがダンスをして、歓迎してくれます。一緒に写真をとるのはもちろん有料です。
 世界で唯一と言うねずみ博物館を見ました。小さな展示場にぎっしりと世界中から集めたねずみのおもちゃが飾ってあります。日本からは『ねずみの相撲』が出展されていました。
 この日、ムィシュキン市はちょうど祭日で大市場が開かれていました。食用の生きた子豚が600ルーブル(2400円)で売っていました。コーカサス人らしい商人が大きなソファを直接路上に並べて売っていたり、雑貨、衣料品、食料品の露天が連なり、音楽もヴォリュームを上げてにぎやかでした。
 教会の高い鐘楼に上がると、青いヴォルガ、にぎわう町、そして、その向こうにずっと続く森が見えます。きっと、典型的な中部ロシアの風景に違いありません。

 15日目の夕食はクルーズ最後でしたので、期待通り少しだけ豪華でした。普通でも、船客はこの船の料理には満足のようでした。モスクワの外国人用ホテルのレストランより慎ましいメニューと食材ですが、大学の学生食堂よりかなりましだと思います。
 船の食堂

サーシャはチキンが食べられないので、私のところに回します。マイクはジュースもヨーグルトも苦手なので、私に
「よかったらどうぞ」と言います。これでは、いくら毎日船の甲板を歩き回っても体重は増えそうです。でも、(失礼ながら)かなり太目のロシア人に囲まれていますから、気にしないで食べました。
 最後の夕食のとき、一人の船客が立ち上がり、レストラン従事者に感謝の言葉を述べました。私たちはお金を払って乗った客なのに、こんなふうに正式な感謝をすべきかどうか、日本だったら反対ではないか、いや、ロシア式の方が正しいのではないかと、迷っているうち拍手も終わって、その「船客代表」は着席しました。

 閘門で飛び降りるか
 16日目の15時30分に、出発した北モスクワ河川駅に到着の予定です。でも、その最後の日、朝起きてみると船の運航の様子がいつもとは違い、進んでは止まり、止まっては進んでいます。悪い予感があたって、朝食の時、
「夜中、濃霧のため航行ができなかったので、8時間の遅れでモスクワ到着です」と、言われました。モスクワからクラスノヤルスクへの飛行機は22時30分発ですから、8時間も遅れたのでは、全く間に合いません。キャンセルして、次の日の便(1日に1便か2便出ている)のチケットを買い直すにしても、ロシアではなんだかとても手続きが難しそうです。飛行機に遅れてしまった理由を証明する書付を船長にもらえば(個人的理由で遅れたわけではありませんから)、無料でチケットの交換ができるはずと言われました。でも、飛行機と船の会社は違いますが。
 難しいことになって、ちょっとうろたえてしまった私を見て、アンナが
「船長に相談したらいい」といいます。その通りです。その日、船長は非番で船長室で寝ていましたが、起きてもらって事情を説明しました。モスクワまで半日の航行といっても、電車や車なら2,3時間で着いてしまいます。でも、クルーズ船は決まった寄港地の他は停泊しません。そこで、船長は、
「第6閘門のところで、飛び降りたらいい。そこから10分も歩いたところに、モスクワへ直通の郊外電車の出発駅がある。そこから1時間でモスクワ環状線まで行ける」と言います。確かに閘門のところで、船を杭に舫いますから、水位が上がりきって船が堤防の高さと同じになった時、準備しておいた自分の荷物を持って、特別に降ろしてもらった板(階段でしょうか、はしごでしょうか)をすばやく通って、下船することはできそうです。
「第5閘門が過ぎたところで、どうするか決めよう」と言われました。
 私が帰りの飛行機に間に合わないかもしれないと言う情報は船内に流れ、乗客も船員も郊外電車の乗り方や降り方、第6関門までまだどれだけあるかなど、みんなが私に必要なことを教えてくれようとしました。ぎりぎりに着いた場合のため、モスクワでのタクシーの乗り方(ふっかけられない料金や、外国人と見られないような行き先の告げ方)についても教えてくれました。モスクワから直接日本に帰るのかと思って、帰国便に乗れないかも知れないと、心配してくれた人もいました。一人でこんなに遠くまで来るなんて大胆すぎると言った人もいました。確かにそうですが。
 雨は降っていましたが、霧は晴れ、船はぐんぐん進んでくれます。船員を捕まえて、
「今どの辺なの?第5関門までまだどのくらいかかるの?」と聞いていました。閘門をいくつか通り過ぎたので、それが第何閘門か、船員に聞いて確認していました。荷物はもうとっくにまとめて、『飛び降りる』準備も完了です。
 13時半ごろ、第5閘門を過ぎるとすぐ、操縦室の船長のところへ行きました。
「大丈夫、モスクワ到着は18時より遅くならない、17時半頃だろう」と言われてほっとしました。ハプニング付き冒険旅行にはならない方がいいです。いち早く入手した到着時間の情報は、心配してくれた人みんなに言って回りました。みんなが知った頃、やっと船内放送で、
「到着時間は今のところ17時半の予定です」と流れました。
 到着後、飛行機の出発まで5時間も余裕がありますから、モスクワの北の端の河川駅から、南の端のドモヂェドヴォ空港まで、地下鉄を乗り継いで行っても十分間に合います。

 到着
 17時半に、16日前出発した北モスクワ河川駅の第2埠頭に着きました。みんなは、私が一番先に降りたらいいと、出口を譲ってくれました。モスクワはまた雨です。道中たくさん本を買ったのでかばんは重いし、河川駅の岸壁は長いし、『タクシーに乗らない』主義の私も、こんな場合はやむをえません。ドモヂェドヴォ空港へ直通の特急電車が出ているパベレツキー駅まで500ルーブル(2000円)でタクシーに乗りました。モスクワの中心を横切ったので、クレムリンも、一目見ることができました。モスクワへは、何度も来ましたが、クレムリンを見なかったことはありません。
 空港では、アンナに
「無事ついた、ありがとう」と電話しました。アンナたちもちょうど家に着いたばかりでした。

 モスクワからペルミへ、ヴォルガからカマ川に入り往復約4000キロ、16日間航行し、16ヶ所を回りましたから、ウラル西側のヨーロッパ・ロシアの広大さと自然の美の一部は満喫できたと思います。
 モスクワから、ヴォルガに沿って、カスピ海の河口のアストラハンまで行くコースもありますが、川は、都市を流れれば流れるほど、都市のごみで汚れ、カスピ海に注ぐ頃はすっかり泥川になっているとも言われます。

 地理と歴史をたっぷり勉強した船旅でした。今度は陸路、中央アジアの地理と歴史を勉強したいものです。
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