クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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home up da February 22, 2023 (追記:2023年7月20日,2023年10月2日)  筆者へのメール
39-2  ウクライナ避難民母子と  (2)  
с беженцами из Украины   2023年7月から8月


 1  2  3  4  5
 1 2022年2月以前  8 借家と環境を見に来る 15  長男マハ   21  夫セミョーン  『陽庵』
 2022年2月から6月  9 陽庵  16 マハの虫歯  22  2023年6月から 19  『陽庵』2
 3  フェイス・ブックで  10  引っ越ししてくる  17 マハ、続き  23  テレビの取材    
 4  住居の勧誘  11  マリヴァの仕事  18 アツシ  24  個人情報    
 5  日本避難以前のマリヴァ  12  保育園。学校  19 寺山さん  25  F 市支援者からの情報    
 6  マリヴァとのメール  13  ベビーシッター  20
シンジさん  26  富士山登山と賃貸契約書    
 7  到着  14 マリヴァの初期の頃の交友     27  不調    

8.借家を見に来る、環境も見る
 旧借家人が家を空けたのは2022年7月17日で、彼らは自分たちの荷物を引き上げただけで屋内は粗大ゴミ、塵埃、蜘蛛の巣も多かった。仲介の不動産屋に文句を言って業者に清掃してもらうことになった(費用は敷金から払われる。うち2万円は私が敷金以外で払う)。だから2日後の7月19日に、マリヴァさん、宮田さん、寺山さん達の一行が来た時は掃除に取りかかったばかりで、台所は油汚れ、トイレや風呂場はカビとほこり、室内は蜘蛛の巣と塵埃だった(不動産屋は、いかにも知った顔で、これでもいい方だという)。だからマリヴァさんもあまり気が乗らなかったのかも知れない。市役所への書類のため賃貸仮契約書を交わしただけだった。。
 3人の子供達は庭で寺山さんと待っていた。ふと外を見ると、7歳のマハが庭の松の木に登っている、4歳のアレックが庭に敷いてある那須石を投げている、2歳のロキが菜園のブラックベリーを取って口に入れようとしているが、青い実も採ってそれは捨てている。3人の子供達は外、つまり庭で寺山さんが見ていた。子供達が危なくないよう、菜園のベリー類が無事なように、もっとよく見ていてくださいと言いたい。3人の子供達は全く好きなことをするのが普通の生活のようだ。内心、人の家に始めてきてこれだけ自分勝手に振る舞う子供は初めて見た、と思っていた(子供とはこんなものだとは思えなかったのだ)。ともかく、私たちが室内で話している間、寺山さんに子供達をしっかり見てくれるよう頼んだ。木登りと石投げと菜園荒しは、この時だけはこれ以上は避けられた。後に、マリヴァに、青い実は採らないように、それどころか菜園のベリー類は採らないように、子供達に言ってほしいと頼んだところ、ロキ(2歳半)には言ってもわかりません。と言われる。それなら、親が注意しているべきだ、と思ったが、その時は何も言わなかった。実は、この後、3人の子供に、言いように庭と菜園を荒らされることになった。あまり厳しく注意して嫌われるのがいやだった頃のことだ。(さらに後のことになるが、2023年に来日した彼らの父親のセミョーンには彼の好きなように庭を使われる羽目になったのだ)
 借家の家賃は有料だ。公営住宅は無料だ
 マリヴァは日本財団からいくら補助(支援金)が出るのか、それはドルにすればいくらかと知って、それだけの額があれば、子供達と日本周遊の旅に出るから、有料の賃貸し物件は断りたいとぽつりと言っていた。前記のように、交通費の他、住居整備用に50万、一人につき生活費が年に100万円が支給されるそうだ。上限は300万だから、初年度は350万円だ。(この額を聞いた私の知り合いのロシア人は『ウクライナ国籍を取って避難民になって日本へ行きたい』と言ったくらいだ。)
 その補助金で日本旅行をしたいという彼女の独り言はこの時、誰にも訳さなかった。しかし違和感があった。後になって、宮田さんの奥さんに話すと「何のために日本へ来ているんだ」と憤慨していた。
 後記;富裕層(とは限らないが、その日暮らしでなければ)のお金の使い方の一つはレジャー、旅行だ。事実2023年6月17日から26日まで9日間、マリヴァは3月に避難してきたばかりの夫のセミョーンと沖縄とその南の島の旅行に出かけた。果たして、かわいそうなと思われるウクライナ難民家族(日本在住)に、寄付金や(中古の)おもちゃや子供服を寄贈する意味があるだろうか、と私は思ったが、沈黙の傍観者に徹しよう。私のような富裕層ではない日本人にとって、沖縄島巡り1週間の旅費の出費はためらわれるが,避難民は戦禍のウクライナから避難してきたようなかわいそうな人たちだから、それくらいはいいのだと思う人もいるかも知れない。マリヴァのキエフのマンションとイルピンの別荘は早々と修理済みと言うことだが。
 つまり、テルリスさん達は自分の国を失ったわけでも、故国の財産をなくした訳でもない。(家屋の失って日本に親戚を頼って避難してきた人もいるが,彼らはそうではない)
 また2023年夏休みには山に1週間のキャンプに行くとか(富士山)。彼らは、レジャーの機会は逃さない。レジャーどころではない普通の人も日本には大勢いる。なのに、支援金を受けている彼らが!と思う。彼らの行状を聞いた私の知り合い達は、みんな不快そうだ。そうは言っても、犯罪でない限り、何をしてもそれは個人の自由だ。

 住居が決まらないと市民になる手続きができないと、宮田さんが言ったせいか、この時仮契約をしてもらった(定住所がないと在留カードが発行できないのか)。マリヴァの一番の関心は、よく言えば驚嘆するほど活動的な3人の男児の子育てから自由になる保育所の存在のようなので、近くの保育園(3,4カ所あり)と子供が遊べる公園(4,5カ所あり)の場所を車で回って、そのままその日はH市に帰って行った。近くに保育園がないようなら日本に来る価値はないというようなことも言っていた。『日本へ来る価値』ですか。
 なんだかロシアとウクライナ『いいとことり』をしているようなマリヴァに、このときは、すでにかなりの戸惑いを感じた。

 プロの掃除業者が3日間かけて、かなり住みよくしてくれたので、もう一度マリヴァさん達に来て、最終的に決めてもらうことにした。避難民の彼女に当KZ市から提供されようとしていた公営住宅は、郊外の宅地開発地にできたいかにも公営住宅という様相の3階建てアパートの1区画だったらしい。彼女がかつてウクライナで住んでいた富裕層向け住宅地イルピンとはあまりにかけ離れていたのかも知れない。近所の住民も富裕層とは言えない。家族用公営住宅は狭くても3,4部屋はある。しかし、こちらの借家のほうは旧くても、間取りがゆったりしていて、日本庭園風の庭も(これは後に私が「日本庭園は見るもので子供の遊び場ではない、遊び場としては近くに公園があるからね、そこへ行ってね」と遊ぶことを厳禁したが一向に守られなかったところだが)、8メートルくらいの長さの上から下までガラス張りの縁側(これが庭からのぞかれたという後の不和・不調の原因にもなる)もあって、ウクライナ人には気に入ったらしい。公営住宅団地では、隣が近く、少し陰気で、住むだけという感じだと彼女は思ったのかも知れない。そんな公営住宅より、もし夫のセミョーンが来た場合も快適に住めると思ったのか、夫のセミョーンが私からの写真を見て勧めたのか(それは間違いない、もちろんその頃からセミョーンは先に避難した妻の後を追って日本に来るつもりだったのだろう。自分が住んでも快適なところをマリヴァに勧めたのだ(*))、彼女自身も広々とした古民家が気に入ったのか、この家に決めて、2週間後ぐらい、つまり8月1日過ぎに向けて荷物を運ぶと言うことに決まった。補助金(支援金)が下りるのは8月末のようなので、マリヴァはそれまでは家賃支払いを延期してもよく、必要な家具や電機製品の購入費用は宮田さんや私に立て替えてもらえることになった。また、マリヴァには宮田さん宅や私宅にあるもので使えるものは使ってもらうことにした。
 その前に、避難民にはどんな寄付品があるかという生活量販店『DH店』から目録が彼女にメールで送られてきて、彼女はチェックしておいたのだろう。ウクライナ避難民支持で名を上げることにした企業や団体は多いが、『DH店』もその一つらしい。台所用品などの日用品から家電まで多品目がリストにある。さすが食洗機はなかったが、日本ではエアコンは必需品とされたのか、載っていた。後のことになるが、エアコンが支給されたのは9月のもう涼しくなった時期だった。盛夏は電気屋さんも忙しかったのだろう、電気屋さんも一段落ついた頃エアコン取り付けに来てくれたのだ。またテレビも送られてきたが、設置できなかった。有料チャンネルを子供のおもり代わりにはできなかったわけだ(後述)。
 (*)それは2023年8月6日付けHT新聞のセミョーンに関する記事(戦地で戦っていて、妻が恋しかった。日本で会えるとは思わなかった)とは矛盾する。当時のいきさつを知っている私は、記事とはこんな,つじつま合わせのいいかげんなものだと思わざるを得ない。

 マリヴァの重要関心事は保育園が近いか、近くに子供の遊び場があるか、店も近いかと言うことだった。前記のように、フランスの避難民用団地は店が遠かったと文句を言っていたのだ。私の家は、彼女の条件を満たしている。もちろんだ。店や保育園や公園は直ぐ近くに複数ある。当時のボランティア精神に満ちていた私は彼女の要望に合致できたとほっとしたものだ。
 車で回って、いくつかの保育園の場所を確かめてもらった。なぜ近くまで来た保育園に今すぐ入っていって園長に入園を頼まないのかとマリヴァは不審がった。日本の認定保育園はウクライナのようには行かない。保育児童には自治体などから補助が出るからだ。学校もだ。住民登録がまず必要だ。そのためには正式の賃貸契約書が必要だ。子供を認可保育に預けるには両親ともが働いていることも必要だ。マリヴァにとって日本の(ロシアやウクライナのように緩く恣意的ではない)システムは戸惑うことが多かったようだ。

 子供の遊び場の公園なら、近くにいくつもあって、誰でも自由に行ける。しかし、後でマリヴァの不満を聞いてわかったことだが、それら住宅地に多くある小公園は遊具が少ない(ブランコ、鉄棒、滑り台程度)から、子供がすぐ飽きて(長くは自分を育児から解放してくれない)面白くはないとか。遊具の多い大がかりな公園はKZ市にも少なくないが、私の家から子供の足で歩いて行けるところにはない。
 その日は場所を確かめただけでH市に帰っていった
 9.『陽庵』(抄)
 セミョーン・テルリスさんとのフェイス・ブックでのやりとりで度々言及されていた寺山『上人』に会ったのは、到着当日の空港が初めてだ。2時間弱の延着飛行機の待ち時間の間に話は聞けた。インド(?)での行脚から帰ったばかりだったらしい。前記のように、お互いのキルギス旅行の話もした。寺山さんは、キルギスに詳しい人がいるとは日本では珍しいと、思ったようだ。寺山さんはキルギスばかりか、チェチェンにも行ったことがあると言う。こんなところでチェチェンに詳しい人と会うことは珍しい。お互いにキルギスの話もチェチェンの話も、もっと深く話したいと私は思った。 
 だから、寺山さんが是非にと言ってくれた2022年7月23日に陽庵と言うところに行ってみた。そこは普通の民家で、一階の二間を一室にしたような広めの部屋の奥に祭壇があった・・・・全文は(5)(パスワード付のサイト)へ
 仏教だから仏壇だが、そこには寺山さんの師と言う僧侶らしい老人の大きな写真もあって、一見して「おやっ」と思ったものだ・・・。その祭壇には、いろいろな付属品が並んでいる。なるほど、マリヴァがここに住まないことにした理由もわかる。子供達が触ってはたいへんだ。もっと重要な理由は、陽庵のあるところは田舎だ。都市と農村の格差の大きいウクライナ(やロシア)に育ったマリヴァは田舎に住みたがらない。退屈で遊ぶところもないと思っているのかな。
 仏教の坊さんと聞けば、親代々か、何らかの縁で寺を継いだ人か、京都奈良などの旧い寺院で修行した人かと、そんな先入観のあるものだ。が、その寺(らしい)の陽庵と言うところは、全く私的で寺山さんの一存で運営されているようだった。・・・H市に・・宗の寺はネットに13軒載っているがその中には陽庵はない。寺ではないからだ。宗教組織に縛られないと言うことか。それというのも、いろいろな人からの話でわかったことだが、・・・そして世界各地(と言うが、インド、ネパール、旧ソ連圏など)で、平和運動をしているという。
 ・・・「一神教のキリスト教やイスラム、ユダヤ教などには神が宇宙のすべてを創ったと言っているが、仏陀は自分が宇宙を作ったとは言ってないですね。神道や世界各地の民俗宗教ではたいてい創造神が出てきます。仏教では全能の創造神がいないので、ほとんど無神論のようにも思えますが」と言ってみたことがある。これは有名な問なので、一応『上人』様と敬われている彼の意見が聞きたかったのだ。しかし、「理屈っぽいね、マリヴァのように」、といなされただけだ。彼には指が一本ない。平和を願って自分でろうそくの火で焼いたとか。彼の腕などには傷跡がいくつかある。・・・。そうしたことで念願(戦争を止める)が成就されるものか。ホモ・サピエンスが、生物としての存在を止めないかぎり戦争はなくならないのだ、と私は密かに確信している。

 前記のように、寺山さんやセミョーン・テルリスさんはインドやネパールをも歩いているそうだ(フェイス・ブックに多くの写真があり、寺山さんは宗教活動をしているとみられる自分の膨大な写真をファイスブックに常に載せている・・・
 寺山さんは宗教者なので経済活動はせず、所得はないことになっている。が、・・・。宗教のあるところには昔も今も、西も東も富が落ちてくるのか。
 キルギス『道場(仲間の集会所)』を寺山さん中心で建てたようだ。寺山さんの出身高校の同窓生が、宮田さんに限らず、応援しているそうだ。・・・本人の親戚には有力者もいるらしい。それが日本財団の幹部らしい。なるほど、これでパズルの1片が埋まったというものだ。
 7月25日。手続きの帰り、宮田さんの車でマリヴァが再度借家を見に来る。掃除がしてあって、こぎれいになっていた。
 10,引っ越し
  2022年7月30日(土)、11時40分に彼らは軽トラと乗用車で到着した。
 8月に入ってしばらくしてからと言っていたのに、1週間ほど早くH市の陽庵から引っ越ししてきたのだ。宮田さんは何だか怒っているようだった。彼によれば、一刻も早くマリヴァの身元保証人としての責務を果たしたい、終わらせたいという感じだった。身元保証人は1年の期限だが、その期間中もそばで見ていたくはなさそうだった。マリヴァが住むと言った私の家に、一刻も早くマリヴァを押しつけて帰りたそうでもあった。宮田さんの家は陽庵に近いH市だ。
 身元保証人としては、マリヴァを定住所に落ち着かせなければならない。だからもっと陽庵でのんびりしていたかったマリヴァをせき立てたようだ。軽トラックにタンスや鏡台、座テーブルなどを運んできた。宮田さんの寄付だそうだ。私は大物ではソファを寄付した。運び込むための助手の男性も連れてきてくれた。今回も寺山さんは庭で3人の子守をしている。木登りをしないように、石を投げないように、まだ青い実を採らないようにと言っても、寺山さんという子守がいるにもかかわらず守られないので、私は引っ越しをしている屋内を見たり、屋外の子供達に目をやったりしなければならなかった。
 マリヴァの希望で前の借家人のガスコンロは捨てたので(掃除の人はきれいにできると言っていたが)、今日中に新しいガスコンロを買わなくてはならない。洗濯機や冷蔵庫も買わなくては、明日からの生活はできない。
 費用を立て替える宮田さんの奥さんのゆきえさんと、通訳の私とマリヴァの3人で、まず家電量販店へ行った。宮田さんは寺山さんと家で2時間だけ待つから、その時間で買い物を終わらせるように、と厳命する。
 量販店では、ガスコンロは種類も多くなかったので直ぐ決められた。洗濯機はそんなに高くない種類が多く展示してある。しかし、彼女はそんな普通の洗濯機は気にいらない。洗濯乾燥機でないとだめらしい。洗濯機から出して干さなくても、すぐ着られるからか。展示してある並の洗濯機の間を周りながら、こんなのではない,乾燥機付のがほしいのだと聞いた私は、正直びっくりした。なるほど彼女らしい。しかし、そんな便利で手抜きのできる生活をするためには、それなりの資金がいるというものだ。値段は2倍近い。だが、ほしそうだった。彼女のキエフの家にあったとは思えない、お手伝いさんがいたのだから。
 冷蔵庫はとにかく大型を選んだ。私のようなつましい家庭ではそれほど大型はおいてないが。彼女はウクライナでもこんなのを使っていたのか。ウクライナでは多分ドイツ製だろうからずっと高価だったろう。日本の量販店の安さに目移りしたのかな。しかし、洗濯乾燥機は普通の洗濯機の倍近くするし、大型冷蔵庫は、安くはない。品物を選んでいくマリヴァの後ろについて、私は、私の家の借家人になった人が実はテレビで見ているようなスーツケース一つで子供を抱いて廃墟となっている建物の隙間から避難してきているようなウクライナ人とは全く異なると言う事がよくわかった。そのことを、何と考えて良いか、まだわからなかったのだが。品物を選ぶマリヴァの後から,私は黙ってついていった。
 彼女は買いたいもの(大型冷蔵庫、洗濯乾燥機、ガスコンロ)の合計額を知ると、ウクライナの夫のセミョーンに電話して許可を求めた。一時の生活であろうと、自分の満足するものに囲まれて生活したいマリヴァだが、いずれは日本を去るにしては金額が大きすぎると言われたのか(しかし、夫も来て一家で日本で住むつもりだったようだが,この時は、戦争がそれほど長引くとは思われなかったのかも)、ガスコンロ以外は断った。中古品を買えばいいよと助言してあげた。かなり品質のよい中古品でも値段は半値と言うこともある(*)。ゆきえさん運転で、直ちに中古品店に向かう。そのかなり大規模な中古品販売店は、洗濯乾燥機はなかった(この日は展示されていなかった)。やむなく普通の洗濯機と大型冷蔵庫を買う。調理台もあったので、「これだ、これだ」と言って購入。マリヴァはその中古品店の家電と家具売り場をかなり興味深く回っていた。
 (*)ロシアやウクライナでは日本のような、何でも売っている中古品店はない。あるのは持ち主から中古品を預かって売り、売れれば手数料を取ると言うコミッション店 комиссионный магазинだ。後のことになるが、来日の夫セミョーンも含めてテルリス一家は中古品店の大ファンになって、自分で何でも買うようになった。

 宮田さんが指定した時間は2時間だったので、その時は帰ったが、後日、マリヴァは私とその中古品店へ行きたいと言った。そして大きな食器棚と、ロボット掃除機を買った。ずっと後のことになるが、とうとう食洗機も買った。それを聞いたウクライナに残してきた彼女の友達はやっかんだかも知れない。ロボット掃除機と食洗機については、それを知った日本人の私の知人たちは、支援金を受け取っている避難民には全く似合わないと腹立たしげだった。しかし、マリヴァの買ったのは、安物メーカーの中古で、あまり便利ではなかっただろう。ただ、持っています、とキエフに残してきた友達に言うだけだ。
 私は、彼女にウクライナ時代の貯金があり、ウクライナの両親がカードにお金を入れてくれたとしても、これらの買い物は、彼女の性格を表わしていると心の中で思ったものだ。家事と育児の嫌いな女性はどこにもいる。程度にもよるが、私もかつてはそうだった。後でよくわかったことだが、彼女は普通の程度をかなり上回って、室内の床にはいつでも絶望的なほど、ものが散らばっていた。片付けないのだ。これではロボット掃除機でも普通の掃除機でもきれいにならない。食卓の上や流し台には食べ残りや汚れ食器が散乱している。食洗機に台所ゴミも一緒に入れてはだめだろう。

 この頃までは、私はマリヴァに対して避難民であるウクライナ人として、この家に住むと決めてくれたことを実は感謝して接してきた。ホームスティのゲストのように、家族の一員のように接してきた。だが、宮田さんの腹立ちがだんだん移ってきたのだ。彼は、マリヴァの手続きのため東奔西走し、また引っ越し(と言うか、日本での新居)のため、毎日骨を折ってきたにもかかわらず、「マリヴァは、遊ぶことばかり考えて、全く手伝わなかった。すべてマリヴァのためにやっていることなのに、彼女は遊び回っているだけだった」と激しい調子で、引っ越しの当日に私に話した。マリヴァは、いい歳をして面倒は嫌い、遊びは好きだと言うタイプらしいと言う印象を早くも持った私には、それにしてもさすが度を超していると思ったものだ。
 数日後のことになるが、寺山さんから長い電話があった。マリヴァ母子は、来日後10日間余は寺山さんの陽庵に住んでいたのだ。マリヴァを迎えるために、寺山さんはインド(?)から帰国し、マリヴァ母子のために大急ぎで人数分の布団を用意したと言うくらいだ。どうやらその10日間余、寺山さんはマリヴァの炊事係、洗濯係、買い物係、子守、土地の案内係を務めたようだ。ヘトヘトになったと、私に長電話で愚痴ったのだ。宮田さんの付け加えによると、マリヴァは寺山さんに「自分のパンツも洗わせて、寺山は乾いたパンツをたたんでいた」とか。
11.初めの頃 マリヴァの仕事
 マリヴァの生活感は当初信じられないくらい浮ついたものだった。日本へ避難したというより、以前に来たことがあり、気に入っていた国で住んでみようか、仕事もしてみようか、と言うノリできたような所もあって、宮田さん達からひんしゅくを買ったのだ。私は当初はそこまでは考えなかった。一応彼らは避難民であるとして考えた。
 マリヴァのファイスブックを開いてみると、日本へ避難できたこと、広い庭もある日本住宅に住んでいること、庭に面して一面がガラス戸になった広間があって(縁側のことだ)、その部屋の一角(床の間のことだ)には、ほら、こんな掛け軸(大きな水墨画で彼女に貸してあげた)もかかっていると言った写真や投稿がある。それがウクライナに残った友達などからうらやましがられているようだった。しかし、友達の中には上から目線の女子組もいて、日本なんて他の惑星じゃないの、どうやってそんなところに『ヨーロッパ人の自分たち』が住めるのかとか、言うコメントもある。

 マリヴァは日本で何をするつもりだったのか。彼女は、ウクライナでは自分は金融コンサルタント会社とかいうのを立ち上げた、と言う。英語力とパソコンで(社員だか助手も使って)かなり繁盛していたらしい。彼女は当面、日本で『自分に合った』仕事があると考えていたようだ。だから、できれば、そのようなオフィス仕事をするつもりでいた。
 当初は、保証人の宮田さんが、臨時的な仕事を提供すると言っていた。無職では保育園には入れないからだ。宮田さんが最近開いたペンションを、英語でネット宣伝すると言う仕事だ。そのペンションに外国人ゲストも宿泊してほしいからだそうだ。また、宮田さんの息子さんは料亭を経営しているので、そこにも出てくれれば、それなりの給料を出しましょうと言うことだった。しかし、料亭で彼女は何をするのか。食器洗いや床掃除は絶対しませんとマリヴァは断言していた。それを聞いた私は、びっくりした。単純労働をこうもきっぱり拒否するマリヴァを避難経過関係者(支援者)はどう見るだろう。彼女はロシア語で言ったので、その時宮田さんたちにはわからなかったが、後で訳してあげた。彼らはもっと否定的に見たらしい。つまりネット宣伝も料亭の仕事も振り出しに戻った(しない、させないになった)。
 彼女は英語力とパソコンには自信があって、その方面の仕事は必ず見つかると確信していたらしい。平和な時に日本の企業から招聘されたとか、自分で日本に市場を開拓して進出してきたとか、自分の意思で自費で来たとかではない。ウクライナからの避難民としての状況で、今この日本でウクライナでのビジネス・コンサルタントとか言う仕事の続きは不可能だ。自分に合った仕事をして、そこで大勢の友達に囲まれて楽しく暮らすという、ウクライナでの生活(と本人の言葉による)の延長は、避難民としての彼女には日本では難しい。(来日1ヶ月ほどでそれを実感したマリヴァもすっかり気落ちしたらしい。そんなフェイスブックの投稿があった。もちろん友達から励ましのコメントもあった)
 しかし、ウクライナからの避難民としての政府や企業からの仕事の援助もある。
 ウクライナ難民を宿舎付仕事付で募集します、というお知らせが当時良くネットで見かけた。それは昔にあって今では死語の『飯場』のようなところで、現在風には事業附属宿舎で、研修生として入国した単純労働者が住んでいることもある。労働力確保のためだとか。そうした外国人が比較的多く住む市町村さえある。リゾート地にもあるが、その場合は例えばスキー場なら冬場だけとか、工事現場なら、完成までとかの臨時的仕事らしい。日本は労働ビザは高度技術者にしか出さないらしいが、途上国からの研修生と言う名目の外国人労働者が多いらしい。皿洗いや床掃除は絶対しませんという人には、そんな事業附属宿舎は無視だ。

 私の家は大学に近いかと聞かれた。方向は同じだがそれほど近いことはない。大学に近ければ、英語の個人教授をうけたがっている学生も多いからだとのこと(日本的な理解からすれば、距離にあまり関係ないと思うのだが)。彼女は英語に堪能だ、だが、彼女の英語になまりがあることは私でもわかる。英語教師になるつもりだったかも知れないが、英語が母国語で教員免許のある外国人は地方都市にもあふれている。求人は多くない。
 後のことになるが、パソコンが使え英語力のある求人は、KZ市周辺にはあっても、日本語の話せない彼女は面接すらできなかった(私の知る限りでは)。
 自分に合う仕事しかしないというマリヴァの高飛車な態度は、宮田さんたちには不快にうつった。避難民には特別に求人の枠が開かれていたが、それらは時給1000円程度の単純労働だった。それでも、避難民だというので特別に雇おうという一定の企業に限る。避難民で補助金はうけていても、住んでいる以上は何か働かなくてはならない。マリヴァさんにしてみれば、自分を高く買っていたのだろう。しかし、この頃から私は彼女の希望を聞き、全力でかなえてあげようとは努力しなくなった。希望を叶えてあげようと近づいてきた支援者もいただろうが、長続きはしなかったのかも知れない。

 当時テレビで見る限りでは、戦闘を逃れスーツ・ケース一つで子供を抱えポーランドなどの国境へ向かう避難民の姿だ。ウクライナ避難民と言えば、だから命からがらポーランド国境を越え、ボランティアさんたちのお世話になっているという映像だった。なかには幸運にも日本へたどり着いたウクライナ人もいたのだと、みんな(私も)は思っていた。だから、マリヴァへの寄付も多く、生活用品や服類やおもちゃなどがどっさり集まった。宅急便でも連日のように届いた。それらはテレビや新聞で知った人が提供したものだが、前述のように、ある企業(DH店)からは組織的な提供があった。新品の電気製品、タッパーウエアーからスプーンまで生活日用品など、一覧表を見ただけで、びっくりしたものだ(寄付の品々の高価さと手厚さには驚いた。これでは年金生活者の私よりずっと恵まれている)。生活用品の多くは寄付でまかなった。彼女はテレビやエアコン、電子レンジなども、そのDH店からの一覧表から注文した。
 テレビが送られてきた頃、避難民支援活動も行っている市会議員さんが自宅の野菜などを持って尋ねてきた。家電に強くなかった私とマリヴァは、その議員さんにテレビを繋いでほしいと頼んだのだ。日本の日本語による放送局のテレビ番組は面白くないだろうが、衛星放送や有線放送に繋ぎたいと、マリヴァはその市会議員さんに言ったものだ。テレビに子守させたかったのだろう。しかし、繋げなかった。「有線放送? 世間に知れたらバッシングされますよ、だから言いませんよ」と言って、その議員さんは帰っていった。有線放送とは生活必需品ではないとその人も思ったのだろう。
 ずっと後(翌年の夏)のことになるが、その議員さんは補助金支給についてある依頼をマリヴァから受けたらしい。彼女が来日した直後に補助金のことで世話をしてあげたからかも知れない。それで、議員さんは保証人の宮田さんに問い合わしたらしい。宮田さんはマリヴァ達の沖縄旅行について話した。そんな(贅沢な)ことは信じられなかった彼は私に電話して、本当の話かと聞いたのだ。本当だ。彼は補助金支給の手続きを援助すると言う話は断ると言っていた。「かわいそうな人を助けてあげようと思っていたのだ」と彼は言う。「いえ、彼らはかわいそうな人ではありません、周りがうらやむような人たちです」と私は言いたかった。
 また彼女は(日本に行ったからには)日本の伝統スポーツ、例えば空手とか、日本の伝統音楽、例えば三味線とかも習いたいのだと言っていた。(日本に住む以上は、外国人旅行者の定番になっている有名な場所もまわりたい)。しかし、日本へ遊びに来たわけではないだろう。これを聞いて、彼女の気持ちを知った支援者(例えば、市議会議員さんや宮田さん達)は引いてしまった。
 1年ほど経って、夫のセミョーンとも住むようになって、彼女はウクライナ音楽関係の道を見つけたかも知れない。ビジネスは、日本語のかなりの力が必要だから。
12,保育園、学校
 引っ越しと同時に保育所に子供達を引き取ってもらえないことが大いに不満だったようだ。しかし、認可保育園というのはそれなりに手続きが必要ではないか。保育園に引き取ってもらえる8月18日までの20日間が、彼女は耐えられないらしく、その間私は約束どおり、子守してあげた。きっと重宝だったろう。
 
 公園へ車で連れて行った。手を
上げているのは子守の助手を
してくれた私の孫
 
子供達が 我が家に来たので
パズルで遊んであげる
 即日入所できなかったにしても、言葉のわからない外国人だからだというので、定員でいっぱいですと言って渋っていた保育園に入れてラッキーだったのだ。それも、宮田さんがひとます自家経営の料亭で働いているからということにしたからだ。パートで働いていると言うことで、4時までの短時間保育だった。長時間保育(早朝や夕方遅くや土曜保育)には、勤務先の証明がいる
 前記のように、居住証明書の手続きも銀行口座開設も保育園入園の手続きも学校入学の手続きもすべて国際課と市民課へ出向いて宮田さんがやった。
 まず、保育園の最初の説明には、8月17日に通訳も同行してほしいと言うことで、私が同行した。園側の説明を聞いたのだが、入園に必要なもののリストを見てマリヴァは絶句していた。タオルからお昼寝用布団、バック類、内履きズック、換えの下着などなど、すべて記名入りで、私も訳するのに苦労した。それらを購入するにも付き合った。マリヴァには、デザインのよいものでなくてはならず、安価である必要があった。なかなか見つからないので車であちこち店を回った。

 8月18日は学校へ顔出しした。教頭が応対し、すでに先日、挨拶に来た宮田さんから事情は聞いていると、同情的に私に接してくれた。(つまり、マリヴァの度を超した育児と家事嫌いのことだ)。マハは8月で8才になっているが2年生ではついて行けないというので1年生に転入した。2学期が始まるまでに、簡単な日本語やひらがなを教える約束も私は学校とした。小さな子供がその環境に入って、外国語を覚えるのは容易だと誰でも思うが、実は決してそうではない。子供の能力と性格によっては、どれだけいてもほぼ話せないこともある。話せるようになりたいという意思がいるし、いくら子供でも自然には習得できない。それなりの語学の学習と努力がいる。(マハの日本語学習については後述)
 学校の低学年は早くに下校する。学童保育というのがあると教えると、マリヴァから是非そこへ、と言われた。しかし、言葉がわからなくて学校でも適応できにくいマハには、そのうえ学童保育は難しい。実際、下校後、彼は家で静かに過ごしていた。タブレットなどでゲーム三昧の方が知らない子ばかりの学童より彼には良かっただろう。しかし、子供の成長には全く良くない。スマホなどのゲームは、子供にとって、それなりに楽しいし、手頃な時間つぶしであり、親にとっても、スマホに子守させていれば世話がやけなくて、自分の時間ができるようだが、度を超すと育児ネグレクトになるかもしれない。(後のことになるが、マハ一人の時に用事で家に入っていくと、いつもゲームをしていた。肉親でもない私は,せめてマガの教育と生活を引き受けてあげようかと思ったくらいだ)。

 (前述のように)彼女のフェイス・ブックには、日本の生活について、日本のファッションについてなどの投稿が載っていて、それについてのウクライナの友達からのコメントも載っている。友達は、マリヴァが日本への避難が成功したことに驚いていた。日本に行けるなんて夢のようだと思うウクライナ人もいたかも知れない。ましてや、そこに住めて補助金までもらえ、社会保障もしてもらえるなんて、憎らしいくらい、うらやましいと思う彼女の旧友もいたかも知れない(社会保障はかつての社会主義国だったから、質を問わなければ無料だろう)。一方、富裕層の友達(彼らはヨーロッパにあこがれる)の中には、日本なんて別世界だ。いったいそんなところでどうやって生活しているのか、と言う書き込み(コメント)もある(前記)。日本のファッションは、(自分たちから見て)そんなに悪くはないわと言う投稿もある。知見の浅いコメントも多い。
 13,ベビー・シッター
 
 公園へ連れて行ってターザンロープで遊ばせる
 
 裏庭に子供プールを広げる
 
 児童館の自転車に乗せて遊ばせる
 ナイト・ズーの売店で氷水を食べさせる
 引っ越しの翌日には早速、子ども3人を連れて車で遊具のある広い公園へ行った。しかし、マリヴァは、この時間自分の用事(都合)で出かけていて約束の2時間後に家に帰ってもいなかった。子どもだけにしておくわけにも行かないので、帰ってくるまで長い間子守をする羽目になった。おまけに、車に子供を乗せて駅までマリヴァを迎えに行ったくらいだ。9時近くなって私はやっと子守と運転手から解放された。この時は疲れ果てた。
 次の日も、子守、運転手、ガイド、通訳をした。後の3項目はボランティアだ。そのうち、子守は夜やってほしいと言われた。なぜなら、昼間、繁華街をぶらついても友達もいない、友達は昼間働いているか、学んでいる。
 私が子守を引き受けたのは、彼女が3人の子供達の喧噪から離れて静かに休むためだと思って、それならと引き受けたのだが、友だちと遊ぶためなのか?それに夜に子供達を連れて遊びに行く公園もないではないか。ではゲームセンターでも行けばいいのか。1度だけ連れて行ったが、マハは大喜びだった。しかし、コインを買うのは私だったから、1度きりで、もう行かなかった。
 ナイト・ズーというのが夏季にだけあったので、そこに連れていった。動物園は広く、坂が多く、人が多いので、3人の活発な子供を迷子にさせないで、連れて歩くのは、難しい。勝手にどこにでも行かれると暗い中で見つけるのにたいへんだった。その間、マリヴァは身軽に友達と遊んでいたのか。
 私は、この日以後、子守として雇われるのは断った。子守を雇って世話をしてもらえば、その間自分は何をしてもいいというのは、高級別荘地イルピンの奥様が考えることだ。ウクライナに同情したあまりに、そして、子供達とも仲良くなれることを期待したあまりに(タカコサーン、タカコサーンと子供たちには後々になってもとてもなつかれたが)、引き受けた子守だが、これ以上はこの種の支援はしないと決めたのだ。夜の子守は断固断った。昼間のベビー・シッターはこちらの都合のつく時だけ無料で引き受ける、と言ったら喜んでいた。
 8月中は、彼女にはボランティアのガイド兼運転手兼通訳(つまり私)がいたようなものだ。ほしいというものが売っている店を回った。インターネットを設置するような代理店もまわった。これは回線を設置して使用する費用が高かっただけでなく、自治体から、回線付のスマホが提供されたようで、不要になった。電気も開通するように、またガス栓も開けてもらえるように電話をかけてあげた。(以上、残念ながら感謝されることはなかった。私も自分から進んでやったことだが)
 近所の家で子供用プールを広げているのを見て、ほしくなったマリヴァを案内してそんなプールも買った。プールに水を張っておけば、子供達が長時間自分たちだけで遊んでくれると思ったらしい。小さな子供を持つ親はみんなどうやって子守から手抜きをしようかと考えるものだが、程度の差というものがあって、マリヴァの場合は、間近で見ている私には驚異だった。ウクライナにいる時はお手伝いさんがいたし、日本で子守を頼もうにも私からは断られた。彼女の『夢は子育てを地域でやってもらうことだ』とフェイス・ブックに書いていたが、彼女の『地域で子育て』の中身は不明だ。ちなみに彼女は精一杯大きいピニールプールを買って、庭の苔の上に広げて、満杯に水を張ろうとした。これはやめてもらった。水道代は定額で私が支払うから。下敷きにされたスギゴケも痛むから。
14,マリヴァの初期の交友 コリン、ロマ、えり子さん
 日本へ来て彼女はまず話し相手に飢えた。SNSでウクライナに残してきた友達とも話していただろう、しかしそれは6時間の時差で夜中になる。(だから、彼女は朝寝坊だったのかも)。しかし、SNSが通じれば(探せば)、地元在住で英語の話し手とも交流ができる。そして、近くだから会うことだってできる。
 マリヴァが引っ越してきた数日後の8月3日にはコリンというオーストラリア人女性が彼女宅に訪れている。コリンはKZ市美術工芸大(美大)に留学しているという日本語も話し、マイカーも運転しているというとても感じの良い女性で、私が知らずにマリヴァ宅へ入ろうとした時も、玄関まで出てきてちゃんと挨拶してくれた。マリヴァは来日前にフェイス・ブックかで知り合いになったらしい。2,3度は車でマリヴァ宅に遊びに来たかも知れない。コリンは大学に通っているから昼間はマリヴァに付き合えない。休日か夕方以後でないと会えない。その時間には子供がいて自由にならない。コリンとの交際はあまり長くなかったらしい。マリヴァがコリンに土曜日のベビーシッターを頼んだところ忙しいからと断られたそうだから。コリンが紹介した一日保育サービスは高価すぎた(3人の子供で1時間1000円なんて所はどこにもない。ましてロシア語どころか英語でもない)。英語が母国語のコリンから英語教師になることの難しさも言われたらしい。また、コリンが英語教師の募集に応じるには資格が必要と、自分の体験も交えて教えたに違いない。その後、彼女とは疎遠になったのか、いつの間にか、その名もマリヴァから聞かなくなった。

 コリンの次は、私の知る限りでは、えり子さんという40才くらいの独身の日本人女性だった。彼女は定職も定住地もないようだった。そういう生き方をしている女性らしい。英語のできる友達がほしいという希望でF市のまち子さんに紹介されたそうだ。ウクライナ支援関係の付き合いらしい。しかし、ウクライナ支援もいくつも組織があり、どう関係しているのかわからない。お互いにヘゲモニーを握ろうと敵対しているのか、協力しているのか知らない。
 えり子さんは数ヶ月前KZ市に来て、数ヶ月後には他所(例えば群馬県とか)へ移るという。彼女は宿泊付バイトで生活している。つまり、ホテルの掃除などをして、そのホテルの従業員用の部屋に泊まっていたり、民宿の留守番兼受付兼掃除で、その民宿の一部屋に住んでいたりする。
 えり子さんは、ウクライナ支援関係者ばかりか、神道関係者でもあるらしい。郊外にある小さな旧い神社に徒歩とバスを乗り継いでお参りに行ったとか。その神社に祭ってある神の名前を言っていた。由来も説明してくれた。しかし、彼女は自分の宗教観についてはっきりとは言わなかった。
 英語を話す知り合いを探していたマリヴァにまち子さんから紹介されて、つまり、ネットで知り合った後、えり子さんはマリヴァ宅に遊びに来るとか、マリヴァ一家と一緒にH市へいくとか(彼女は車がないので電車で行った)していたらしい。そのえり子さんは、マリヴァからすれば子守にぴったりだった。と言うわけで、1時間1000円の夜間の3人子守をえり子さんは引き受けた。マリヴァの子供達は、英語は話さない。英語でマリヴァと意思疎通はできるが、ロシア語(ウクライナ語)しか話さない子供達とは会話はできない。夜間なので、子供達を室内でただ見ているだけで、特に遊んでやるとかはできなかったのかも知れない。それでも、マリヴァは大助かりのようで、夕食後の時間に来てくれるようにと言うマリヴァからの電話が度々あったそうだ。
 と言うのも、その後、私はそのえり子さんと知り合って、庭木の剪定を頼んだり、郊外にドライブしたりした。3人の子供を1時間1000円というのは安すぎるではないの、せめて1500円くらいにしてもらったらどうか、と私はえり子さんに言ってみた。えり子さんはそうだと思ってマリヴァに値上げを要求したそうだ。マリヴァはそれなら1200円にしてほしいと言ったが、えり子さんは生活がかかっていますからと断ったらしい。それ以来マリヴァからのオファーは途絶えたとか。そのうち彼女は他県へ移っていった。
  (後記:ちなみにF 市のまち子さんとマリヴァはずっと付き合っていて、何かと必要な時は彼女からボランティアや支援物資、アドバイスをもらっているらしい)

 当市にはもちろんマリヴァの他にウクライナ人も住んでいる。元々住んでいる人も数人、避難してきたウクライナ人も数人いる(10人余か)。オレーナさんという60才近い女性は息子のロマがこちらの大学の特任だったので、その息子を保証人としてやってきたのだ。ロマ達はウクライナ支援募金活動とかでマリヴァと知り合ったらしい。そこは英語を話す何人かのグループらしく、初めはコリンさんもいたらしい。募金活動も数回、ピクニックとバーベキューも数回行ったようだ。フェイス・ブックにその時の写真が載っていた。マリヴァとこども達やえり子さんもピクニックには参加したらしいが、やがて、マリヴァからもロマからもえり子さんの名は聞かなくなった。そのグループの活動の話も聞かなくなった。後でえり子さんから聞いたことだが、当時はロマの婚約者だったナミエさんという日本人女性がマリヴァを嫌ったとか。

 夏の終わり頃、30代の小太りの男性が車で我が家の前にやってきて、ちょうどそこへ帰宅した私にどこに車を止めたらいいかと聞いたのだ。無料の駐車場は近くにはないと私は答え、「どちら様でしょうか」と尋ねたのだ。シンジと名乗り、宮田さんから聞いてウクライナ支援のために来たのだと、車の中から支援物資を出していた。後で宮田さんに聞いてみると、「とんでもない男だ」、彼の家に夜中に来て、なんだか発作を起こし、両親に迎えに来てもらったのだとか。精神を病んでいるとか。
 事実、この夏に突然やってきて、マリヴァの家で何をしていたのか、伝聞でしか知らないが、子守に飢えていたマリヴァの子守を初対面なのに頼まれたのかも。3人を連れて百均ショップに行き、おもちゃを買って、家で子供達をお風呂に入れて、その後疲れて一緒に寝てしまった、と言うのがシンジさんから聞いたことだ。マリヴァからは、「宮田さんはとんでもない狂った人を我が家によこした」と腹立たしげなロシア語を聞いたものだが。(シンジさんについては後述)

 マリヴァの、新たな知り合いには、まずグーグルマップなどで自宅を示し、来てもらうというやり方は、本当は私はやめてほしいと思っている。外で何度もあってよく知り合ってからにしてもらいたい。我が家とは同じ敷地内なので、誰でもが出入りしてもらうのは困るのだ。後のアツシさんも、グーグルマップで近くまで来て、目的の家を探して、近くをうろうろしていたところを、散歩中の私が、不審な人物だと思って、見ていたものだ。そのすぐ後、黄緑色の車が我が家の前に止まり、待ち構えていたらしいマリヴァが飛び出していって、乗り込んだ。『あら、子供達は?』と私は思わず声をかけたものだ。『すぐ帰るから』というマリヴァの答えだった。すぐ帰ったのかどうか、知らない。私は自分の家に入ったので。(後述
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