クラスノヤルスク滞在記と滞在後記 
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up date 2004年2月4日   (追記・校正;2006年6月7日、2008年6月22日、2019年11月16日、2020年8月4日、2022年3月21日)
10−(3)アルタイ山麓のベロクーリハ(その3)
              2004年1月15日から1月30日

Белокулихе в подножии горы Алтая с 15 по 30 января 2004 года

1)ラドン湯サナトリウム
  クラスノヤルスクからベロクーリハへ
  湯治プログラム
  湯治客
  OP 聖ツェルコフカ山
2)OP 洞窟の秘密
3)OP チェマール村
  アルタイの名所
  アヤ湖
  カトゥーニ川
  ゴルノアルタイスク市からビイスク駅へ
ガルボエ湖

オプショナル・ツアー、チェマール村へ 
 『常春』の村チェマール Чемал は、ベロクーリハの南東、カトゥーニ川の畔にあります。そのオプショナル・ツアーは2000円と値段がそれほど高くなく、アカシカ飼育場、コーサカス野牛養殖場、パトマス島寺院、有名なミネラル・ヴォーター水源地を訪れたりするので、参加者も多く、バスは満員でした。
アルタイ山麓の日の出
一緒に写真を撮りたい
奔流カトゥーニ川の流れでできた奇岩
 9時に出発したので途中バスの窓から、草原のはるか彼方に見える山の端から、アルタイの太陽が登り始めるのが見えました。この冬の日の出と言うのは何度見ても魅せられます。しばらく行くと、真っ青な空と白く雪をかぶった岩だらけのごつごつした山々が見えてきます。バスは、山を登り、峠を越え、高原を通り過ぎて、毛のふかふかしたフタコブ・ラクダのいるところで止まりました。なぜ、ここにラクダが住んでいるのか分かりません。アカシカ飼育場で、交通機関として使っているのでしょうか。ラクダの毛を掴んでこちらに向かせ、一緒に写真を撮りました。

 アルタイの山々とカトゥーニ川の自然は、日本と高山の景色とはやはり異なります。クラスノヤルスク南部のサヤン山脈とも山並の組み合わせ方が違うような気がします。

 アルタイの名所
 団体バスで通り過ぎるだけではなく、もっとゆっくりアルタイを見たいと思いました。アルタイに多く残っている古代人が残した洞窟画も、一度見てみたいものです。アルタイ山脈を越えてモンゴルへ抜けるチュイスキー街道、小さいけれど深く透明なことではバイカルにつぐテレーツコエ湖、アルタイで一番美しい川カトゥーニの上流、さらに、アルタイ共和国の首都のゴルノ・アルタイスク市(旧ウララ村、後記)、15万年前以前というウララ遺跡などを訪れてみたいものです。

 サナトリウム滞在は2週間で、1月30日の朝食前にチェックアウトすることになっていますが、帰りのビイスク発の列車は30日の夜8時出発です。追加料金を払えば列車の出発の時刻まで滞在できますが、もう退院手続きをとったサナトリウムでただのんびりしているのは面白くありません。せっかくここまで来たのですから、できる限りアルタイを見ることにしました。それで、ベロクーリハのいろいろな旅行会社に電話しましたが、
「冬は観光シーズンではない。どこへ行っても雪と氷ばかりで、花も咲いてないし、たいていの湖は凍っていて泳げないし、クルーズもできない。今の季節、あまり面白いところはない」と言うことでした。
 結局、朝6時半から夕方7時半まで運転手とガイド付きの車をチャーターして500キロ程回り、料金は1万5千円と言うところで、ある旅行会社の女性社長と話をつけました。社長は喜んで一番いいガイドをつけると言ってくれました。
赤線はノヴォシビリスク市からモンゴル国境へ出る国道
 チュイスキー街道をモンゴルの国境までいくと片道でも500キロですから、せめて、途中のセミンスキイ峠まで行ってみたいと思いました。前日、女性ガイドのターニャに相談してみると、チュイスキー街道の自然がすばらしく、遺跡や、古墳、洞窟画が多く残っているのは、セミンスキイ峠を越えて、まだずっと先へ行ったチュヤ高原のあたりだ、セメンスキー峠までは、ただ道が上り坂になっているだけで、山の他は何もないと言うことでした。つまり、ガイドするところは何もないと言うことです。1日中アルタイの山道をドライブするのも悪くないと思いましたが、ガイドのターニャ推薦の
ベラクーリハから西へ出発、アヤ湖を見て、カトゥーニ川の吊り橋を歩いてわたり、チュイスキー街道に出て、南下、ウスチセマ村で、再びチェマールスキー街道に入り、クユース村まで行って、ユーターン。帰り、ガルボエ湖と、アルタイ共和国首都のゴルノ・アルタイスク市の郷土史博物館を見学、さらに1100メートル北上してビイスク市の鉄道駅へ」
と言うコースに決めました。これですと、テレーツコエ湖の他は、私の希望が全部かなえられそうです。テレーツコエ湖は、またいつかの機会に。

 アヤ湖
 30日朝6時半、荷物を全部車に積んで、まだ真っ暗の中、出発しました。ターニャは私に見せて説明するためのアルバムの他、熱いお茶とサンドイッチも持ってきていました。日の出は、アヤ湖へ行く途中の山中で見えました。もちろん車を止めてもらって外へ出て写真を撮りました。この日はまた寒気が戻り零下30度でしたが、私のこの日の服装は零下20度対応程度の防寒装備でしたから、写真を撮るとすぐ車に戻りました。
 アヤ湖はカトゥーニ川のすぐ左岸にある小さな淡水湖ですが、水面の高さは、すぐそばを流れるカトゥーニ川より50メートルも高いと言うのが不思議です。この辺のカトゥーニ川は蛇行していて、アヤ湖は、昔のカトゥーニ河の一部が川道から断たれてできたものです。その後、流れの激しい本流の方は、河床を削り、50メートルも深いところを流れるようになったが、アヤ湖は河岸段丘に残ったままなので、水面差がこんなに大きいのです、と言うターニャの説明でした。「河跡湖(または三日月湖)」のでき方について地理の勉強ができます。その名の「アヤ」もチュルク語で半月という意味だそうです。アルタイの伝説では、人食いデリベゲン Дельбеген を捉えて人々を救うために月がその谷間に降りてきた。降りてきたところがへこんで湖ができた、そうです。アヤ湖へ流れ込む川はありません。湖底からわき水が出ていて、それで、夏は水温がプラス20度くらいになるので泳げるそうです。今は、もちろん厚い氷におおわれています。
 ターニャがさかんに
「冬は面白くないわ、みんな凍っていて」と、残念がってくれましたが、
「日本の私の住んでいるところでは、湖も川も海も年中凍ることがないから、ここのように一面に氷に被われている、という方がエキゾチックなんですよ」と説明すると
「ふうん、私は今まで日本人のガイドをしたことがないから、どんなことに興味があるのか知らなかったわ」と感心していました。

 カトゥーニ川
 アヤ湖を過ぎると、しばらくチュイスキー街道をいき、チュイスキー街道がカトゥーニ川を離れると、チェマールスキー街道に入り、ずっと道の続く限り、カトゥーニ川(688キロ)の川辺を進みました。カトゥーニ川は、民話ではアルタイ王の娘です。若者ビヤのところへいくために、父親のところから走り出ました。追い付かれないよう走ったので、流れがそれほど急なのです。ビヤ川と結ばれて、生まれた子供がオビ川です。これは、父のバイカル湖から娘のアンガラ川が、青年エニセイ川に向けて流れたという伝説とそっくりです。
少し上流のカトゥーニ川
チェマルスキー街道
古代人の聖地、カトゥーニ川右岸
ガルボエ『湖』
 この辺のカトゥーニ川はアルタイ山脈の広めの峡谷を流れています。川岸に立って川上を見ると遠近の幾つもの山が波頭に見えるのでした。川は凍っていますが、ところどころ水面が見えます。流れが早くて凍れないのでしょう。冬のアルタイ山脈とカトゥーニ川の調和があまりにも美しいので、ほとんど十分ごとに車を止めてもらって、寒かったのですが、外に出てカメラを撮り風景に見ほれていました。

 エディガン村を過ぎて暫くすると、ところどころ洞窟のある絶壁が見えてきます。ターニャが
「何か感じませんか」と聞きます。ここでは、何か霊的なものを感じるはずなのだそうです。と言うのも、その絶壁の洞窟は紀元前後頃の古代人の神殿だったそうで、周りの岩肌には洞窟画(岩石画)も残っています。画はもう薄れていますが、ガイドが唾をつけて擦ると、かすかに角のある鹿の形がうかんできました。この寒さの中、唾をつけて岩を擦るなんて気の毒で見ておられません。指先がしもやけになりそうです。でも、この時初めて、洞窟画は絵の具で描いたものではなく、岩を浅く掘って輪郭を作ったものだと知りました。絵の具で書いたものが今まで残っているはずがないとは、以前は思いつきませんでした。(赭土で書いた岩画なら残っています)

 この辺は雪がほとんどありません。アルタイは、寒さが厳しいのですが、ところどころ、穏やかな気候の谷間があります。チェマール村より40キロ程奥にある、この古代人の神殿跡地も、この場所だけは寒波がやってこないと思われるような暖かさです。聖なる岩肌の前の広い河岸段丘に、遠くに見えるカトゥーニ川に向けて幾つも小さな塚がありました。

 クユース村で、カトゥーニ川に沿ったチェマールスキー街道は終っています。あとは道らしい道のないところを行くほかありません。クユース村の先に、高さ40メートル程もある滝があるそうです。もちろん凍っています。ターニャに、
「流れている滝なんて、珍しくもない、凍り付いた滝を見てみたい」と言って、ここまで来たのでした。でも、地面が凍結していて車ごとカトゥーニ川に落ちそうな狭い箇所があったので、それ以上進むのは止めました。時計を見ると、もう午後2時過ぎで、そろそろ引き返さないと、ゴルノ・アルタイスク市の博物館の閉館時間までに間に合いません。

 でも、途中で、ガルボエ湖(蒼い湖)に寄ったので、結局5時の閉館時間までには間に合いませんでした。ガルボエ湖というのは、本当は湖ではなく、カトゥーニ川の広くなったところの一部です、地下からのわき水があるためその辺だけ川の水が凍らないので湖のように見えます。ターニャと凍ったカトゥーニ川の上を歩いてバルボエ湖をみつけました。夏場はカトゥーニ川の氷も解けるので、その『湖』はありません。外気は零度以下の寒さでも、水温はプラスなので、湯気が立ち、樹氷がびっしり付いています。そして、湖がその名の通り透明な青色なのには驚きました。周りに人気がなく、しんしんとしています。冬の低い太陽が、アルタイの高い山々の陰にもう沈んで、薄暮れ時がせまっていました。アルタイの自然はどこも美しく、切り取って家に持って帰りたいくらいでした。憂鬱な時にそれを眺めると元気が出るかもしれません。

 ゴルノ・アルタイスク市からビイスク駅へ
 アルタイ共和国の面積は日本の約4分の1ですが、人口はたった20万人、首都のゴルノ・アルタイスク市(人口5万人)の他は小さな村が山間にあるだけです。アルタイ人の村もロシア人の村もあります。古いロシア人の村は、ロシア正教の旧儀式派の信者たちが18世紀ごろ、正統派(つまり政府の)教会から、迫害されシベリアへのがれてきて作ったものが多いそうです。シベリアの辺鄙なところにあるロシア人村は、こうした隠れ教徒の集落だとよく聞きます。

 ゴルノ・アルタイスク市に着いた頃はすっかり暗くなっていました。博物館は、もうとっくに閉まっていましたから、通行人に聞いて一番大きな本屋を教えてもらい、歴史や『アルタイの民話と伝説』といった本をまた買い込みました。
追記:ゴルノ・アルタイスクは、1932年まではウララ村といった。ウラルシキ Улалушки と言う小さな川の河口にあったからで、19世紀初め、テレウート族(テュルク系アルタイ族の一)の小さな集落があった。その後ビイスクなどからロシア人が移ってきて1928年には市になり、1932年にはオイロート・トゥーラ Ойрот-Тура 市と改名された。これはオイロート自治州の中心地になったからで、トゥーラというのは町の意。しかし、オイロートというのはロシア人によるオイラト・モンゴルとの混合による誤称であったので.1948年ゴルノ・アルタイスクと改名した。
アノヒン名称アルタイ共和国立博物館にはウコック高原の遺跡で発見された『アルタイのプリンセス』のミイラが保管されている。
 
 エルミタージュにあるパズィルック第5古墳からほとんど
破損されていない状態で見つかった絨毯(45cmx65cm)
(展示室は暗いので写真はうまく撮れない、
売店で売っていたパンフから)
 
 同古墳から出土の入れ墨をしたミイラ
(エルミタージュ、ガラスケースにはいっている)

追記の追記:2016年8月18日、サンクト・ペテルブルク市のエルミタージュを訪れた。その考古学展示室にはゴルノアルタイのパズィル第5古墳からの出土品があった。
 ゴルノ・アルタイスク市からさらにカトゥーニ川岸を川下に100キロ程行ったところでビヤ川との合流点にビイスク市があります。この100キロの間は、カトゥーニ河も平地をゆったりと流れて行きますが、途中1箇所だけバビルガン山と言うむっくりとそびえ立つ山があります。これは、上記の伝説にあったアルタイ王が青年ビヤへ向かって走る娘カトゥーニを引き止めるため、勇者バビルガンを遣わしたのですが、ぎりぎりのところで追いつけなかったバビルガンがそのまま岩になって残ったと言う伝説の山です。
 クラスノヤルスクの自然も美しいですが、アルタイには魅せられます。日本人の祖先の一部はアルタイ出身とも言いますから。
後記:2004年は、アルタイは2020年の現代と比べて観光インフラはまだまだソ連式で不便なものだったが、その後、『アルタイ』の名が神秘的なのか、観光業が大発展。カトゥーニ川岸にはホテル、ペンションが建ち並び、観光バスが行き来している。観光客はビイスクまで飛行機で来て、そこからアルタイへバスで行くそうだ。4,5日の旅費はそれほど高価でなく、私のロシア人の知り合いも何人かは行っている。
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