クラスノヤルスク滞在記と滞在後記
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up date  2004年4月7日   (追記: 2006年6月10日、2008年6月22日、2011年1月13日、2018年12月24日、2019年11月17日、2020年8月5日,2022年3月21日)
11−(2)  ハカシア共和国 『ユキヒョウ』バンガロー・ビレッジ
              2004年3月25日から3月30日

Турбаза "Снежный барс" в Хакасии с 25 марта до 30 марта 2004 года

                            
(1) ハカシア共和国政府所在地アバカン市まで
    まだ冬景色の茫々とした草原
    古代人の塚(クルガン)と石像群
    アバザ市
    『ユキヒョウ』キャンプ場へ
(2) スキー客
    レクレーション係エジック
    サマータイムへ移行
    横転ガソリン運搬車
    またアバザ市からアバカン市へ
 冬でも凍らないストクティッシュ川
 スキー客
後から到着した客と、
『ユキヒョウ』まわりの自然散策
サヤンスキー峠。トゥヴァ共和国側から
 私よりちょっと遅れて到着した家族連れは、スキーに来たのでした。といってもここにはリフトのあるスキー場がありません。リフトはなくても良い斜面があれば、本物のアルペンスキーができます。もっとも、シベリアでは平地のカントリースキーのほうが盛んです。
 この家族は山岳スキーの愛好家なので、本人達が言うには、リフトのあるような初心者用スキー場には行きません。キャンプ場の近くのサヤンスキー峠のてっぺんからの長い斜面を滑走するたに来たそうです。

 私はスキーヤーではありませんが、海抜2214メートルのサヤンスキー峠に行ってみたかったので、彼らの車に便乗させてもらいました。国道116号線を20キロほど行ったところにその峠はあって、手前がハカシア共和国で、峠を超えるとトゥヴァ共和国です。その日、『国境』の峠は吹雪いていて車の外に出ると震え上がるのでした。私たちは車でいったん峠を通り過ぎて国道161号線をさらに進み、スキーヤー達の到着点になるトゥヴァ側にあるふもとの場所を確認して、また、出発点の峠に戻りました。そこでスキーヤーたちは車を降りて滑り始めるのです。その間に車は、またふもとに行き、スキーヤーが滑り降りてくるのを待ちます。リフトに乗って上がる代わりに車で上がり、その車に下で待っていてもらうというわけです。
 私は、車の中で、スキーヤーが滑り降りるのを見守っていました。白く雪の積もった遠くの頂上から、黒い豆粒が3個ジグザグに下っています。雪のたまり具合や斜面の角度を見定めながら、慎重に進路を決めているらしく、いつまでも豆粒のままです。ガイドのエジックは豆粒から目をはなしません。私はそのうち車の中で眠ってしまいました。

 スキーヤーは、クラスノヤルスクで最も大きなスポーツ用品チェーン店の経営者一家でした。

 レクレーション係エジック
 冬場の『ユキヒョウ』キャンプ場は、都会の喧騒から逃れ、シベリア・マツ林の澄んだ空気の中で、ペチカにまきをくべながら一休みするにはいいところですが、退屈でもあります。そうだろう思って3日間だけの滞在にしたのですが、それでも退屈でした。それで、レクレーション係りのエジックの顔を見るたびに「今から何をするの」「午後からは何をするの」「明日は何をするの」と聞いていました。
胸がつかえて入れなかった洞窟の入り口。スキーヤー家族の父親が出てくるところ

 キャンプ場近くに洞窟があるそうです。西シベリアはどこへ行っても大小の沼、東シベリアはどこへ行っても大小の洞窟があります。私は洞窟探検用の炭鉱夫のような上着を着せてもらい、洞窟内は水が流れているのでゴム長靴を貸してもらい、例によってランプつきのヘルメットをかぶって、エジックや昨日のスキーの家族と、胸まである雪を掻き分けて、洞窟の入り口まで来ました。着膨れした上、胸ポケットにカメラや電池を入れていた私は、狭い洞窟の曲がりくねった隙間をするすると通り抜けていくエジックの後についていけません。こんな狭い隙間を無理して通り抜け、戻る時に通れなくなったら、どうすればいいのか。エジックに
「ほら、私の胸がつかえて通れないわ」と言うと、
「ちょっと背伸びをするか、しゃがむかすると通れるよ」と言われましたが、やはり、先に進むのは止めて引き返しました。狭くて暗いところに入るのがやはり苦手だったからです。
 一緒に来ていたスキーヤーの家族の少年と父親が、入っていきました。母親は私と外で待っていました。
馬もご苦労様、働き者のトゥヴァ馬だが
暖炉の前で木のスプーンを彫るエジック

 キャンプ場に戻ると、また私の「今から何をするの」が始まったので、エジックはキャンプ場で飼っている馬に乗ったらどうかと言ってくれました。ここには普通の馬が1頭と、背が低く働き者のトゥヴァ馬が2頭います。馬は1キロほど離れた冬でも凍らないストクティシュ川の下流からキャンプ場へ飲料水と生活用水を運ぶため飼われています。もともとキャンプ場の近くを流れていたストクティシュ川が数年前に流れを変え、洞窟の中に入ってしまいました。そこから地下水になり、少し下流になったところでまた地表に現れて流れているのです。それで冬場は、そこまで水を汲みにいかなくてはならず、それを車ではなく、馬がやってくれるのです。その馬の世話係のスタッフもいます。馬は、午前中は水桶を積んだそりを運ばなくてはならず、午後は私を乗せて散歩しなければならないので大変です。
 馬の手綱を持って引いてくれるスタッフと一緒に、森の道を行くと、昨夜降った雪の上にさまざまな動物の足跡があります。そのスタッフは、現地の人のようで、足跡からどんな獣なのかわかるそうです。たいていの足跡はウサギでした。でも、クロテンもいました。馬も疲れているでしょうし、それに、馬上は高く寒いので、早めに乗馬は切り上げました。

 ペチカにはシベリアマツの薪をくべます。各バンガローの前にも、食堂前にもホール前にも、至る所に薪の山がありました。貴重な木材なのに薪にして燃やしてしまうとはもったいない話です。でも、シベリアは昔からこうしてきました。暇な時はその木片、つまり木地で木のスプーンや茶碗や皿などを作り、それが昔のシベリアの食器でした。「次は何をするの」といつも聞く私に、エジックは、このスプーン作りを勧めました。手ごろな薪を選び、ざくざくと斧で大体の形を整え、鉛筆でさじの形を書き、どの方向にどこまで彫ったらいいか教えて、鑿(のみ)を貸してくれました。これは仕上げるまでに時間がかかります。鑿で彫ってから、研磨紙で磨いてすべすべにしなくてはなりません。
 いったんはじめた仕事なので、食堂でもビデオを見ながら、しこしこと擦っていました。そのうちいやになってテーブルに置きっぱなしにしておくと、エジックが仕上げてくれ、最後の塗料を塗るところは私にやらせてくれました。お客とはいえ、私のお世話も大変です。

 サマータイムへ移行
 滞在中に3月最後の週末があり、その時、夏時間に移行しました。アバザの本社と1日数時間の無線通信があるだけでテレビもラジオもないキャンプ場は、夏時間になると時刻を1時間早めるのか遅らせるのかかわからなくて、結局1時間余計に寝坊のできる遅らせる方にしました。朝、薪をくべに来た従業員が
「通常の時刻では今9時だが、今日からのサマータイムではまだ8時だから、朝食は1時間後ですよ」と言っていきました。サマータイムでは昼間の時間を有効に使うため通常の時刻を早めるはずです。ですから、昨日までは夕方7時過ぎには薄暗くなっていたのに、今日からは8時過ぎまで明るいはずです。みんな勘違いしています。食堂へ行ってコックさんに
「今は8時ではなくて、サマータイムでは時刻が早まってもう10時のはずです」と説明をはじめました。納得してくれて、
「まあ、今日は朝ゆっくりできると喜んでいたの。10分間待ってね。今、急いでピロシキを焼くから」と言われました。私としては、朝食の時間より、正確な時刻を知らないと、帰りの列車に乗り遅れるから、確認しただけのことでしたが。

 横転したガソリン運搬車
横転のガソリン運搬車
もれるガソリンをポリタンクなどで受ける
 キャンプ場を去る日の前日の夕方にはもう迎えの車が来ていました。朝9時に出発する私を迎えにキャンプ場に着くためには、アバザ市を7時前に出なければならず、それよりキャンプ場に前泊した方がいいと、あのハカシア人の運転手は思ったようです。

 エジックに送られて出発しました。その日も空には雲ひとつありません。この地方は降水量が少ないのです。シベリアの自然の中、車を走らせるのは気持ちのいいものです。途中、山火事後の林が再生しつつあるのも眺めて行きます。
 そんな山道にガソリンを積んだタンク・トラックが横転していました。アバザ市からトゥヴァへ運ぶ途中の事故だったようです。横転したためタンクからガソリンが流れています。シベリアをドライブしていると、このような、もったいなくて、危険で、環境に悪い光景を時々見かけます。一番近い村からも何十キロも離れていますし、道端に公衆電話もありませんし、こんな辺鄙な所は携帯も通じませんから、事故を報告して、すぐ事故処理車に来てもらう訳にもいかないのです。事故車の運転手は、私たちの車を止め、アバザ市に行くのだったら、そこのガソリン会社に報告してほしいと頼みました。そして、流れ出ているガソリンをブリキ缶に受けて無料でくれました。
 少しでも環境を汚染しないために通り過ぎる車みんなに分けているようです。ただ、辺鄙なところなので、交通量はとても少ないですが。

 またアバザ市からアバカン市へ
『ユキヒョウ』のオーナー
 アバザ市に着くと、また、『ユキヒョウ』キャンプ場の本社でお茶を飲んで一休みしました。今度はキャンプ場のオーナーが会社にいて、日本人として感想はどうか、従業員のサービスはどうか、どんな点を改善したらいいかなどと尋ねられました。こんな質問は、ロシアでは珍しいことです。『ユキヒョウ』バンガロー・ビレッジを利用して、ハカシアやトゥヴァをまわる『サヤン・ゴールデン・リング』という10日間くらいのコースがあって、日本人観光客を勧誘したいそうです。そして観光用パンフレットなどをどっさりくれました。快適な旅に慣れ、時間の少ない日本人旅行者だが、と思いました。あまり多くはないですが、去年あたりから、シーズン中、日本人ツーリスト・グループが『サヤン・リング』を回っています。

 アバザ市にもわたしの大好きな郷土博物館がありますが、行ってみると、訪問者が少ないせいか閉まっていました。よくあることです。
アバザ市
 アバザ市からアバカン市までの170キロは、遺跡の写真を撮ったり、草原を撮ったり、目の青いハカシア人の運転手のサーシャと、最近の『生活苦』などについて話したりしていると、すぐ過ぎてしまいました。彼の子供2人は年子で、ほとんど同時に大学に入ったため、教育費が高くて大変なのだそうです。生活費も安く教育費が無料だったソ連時代はよかったと、長々と話していました。田舎に住む人たちはみんなそう言います。

 サーシャはハカシア語についても教えてくれ、この辺の地名の多くがハカシア語なので、ロシア語に訳してくれました。ハカシア語でトゥヴァ人や、キルギス人とお互いに現地語で話してもある程度通じるそうです。

≪後記≫
そのキルギス共和国へは5月に、またトゥヴァ共和国へは7月に行ってきましたハカシア共和国へはその後何度も行きましたが、『ユキヒョウ』へは泊まる機会はありませんでした。