クラスノヤルスク滞在記   と滞在後記
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up date 2006年5月27日  (後記: 08年6月21日、11年11月26日、12年1月17日、14年3月8日、16年4月7日、18年12月31日、2019年11月19日、2020年10月7日、2022年3月29日、2026年3月9日))
(16-3) 2004年7月 アジアの中心トゥヴァ(TYVA)共和国(3)
         2004年7月17日から7月26日

Центр Азии - Тыва. с 9 по 21 июля 2004

1)トゥヴァ共和国について 2)小エニセイ川に沿って 3)南へ。タンヌ・オラ山脈を越えて
  旅行会社を選ぶ   大エニセイ川の川くだり   国境のトレ・ホレ湖
  クラスノヤルスクから
   首都クィジール
  日本人観光グループ   昔の首都サマガルタイ
  モングレーク山麓の鉱泉場へ   クィジール市見物
  ユルタ村『アイ』   『ジンギスカン』像   ユルタ訪問
    青銅器時代の石画   トゥヴァ人民大学

 南へ、タンヌ・オラ山脈を越えて
エンジン・トラブルのため、おやつ休憩
『鹿石』と並んで、旅行者5人と添乗員
シュールマク碑(標高954メートル)
 
エルジン村 
エルジン村の子供
トレ・ホリ湖近く
車のフロントガラスはたいていひび割れしている
 
砂漠では車が動かない。 
先を行くのはウクライナからのカップル
自然保護地域監視員という人
 
オスタネツを身も軽く一息で上り詰める
トゥヴァの男の子達
 
 
テントを建てる 
 
夕方のトレ・ホレ湖 
 
朝のトレ・ホレ湖 
 次の日は、1泊2日の予定でクィジールから250キロ南のモンゴルとの国境にあるトレ・ホリ湖へ向けて出発しました。今回もテントや食料、薪などをたっぷり積み込んだばかりではなく、コックの女の子まで乗せました。さらにテントを張ったり、焚き火を焚いたり、車が動かなくなったときに押したりするためのトゥヴァ人の男の子がいつもより多く乗り込みました。だから、『添乗員』は4人もいて、マイクロバスは満員です。いつもの運転手サイ・ディム君を入れて私たち一行10人は、モンゴルとの国境に向かう国道54号線(連邦道54号線)を南へ南へと、タンヌ・オラ山脈を登っていきました。

 荷物を積みすぎていたのか、車が寿命なのか、オーバーヒートを静めるためか、途中何度も休憩しなければなりませんでした。それも悪くはありません。景色のいいところで「エンジン・トラブルです」と、言って停車すると、コックの女の子が手早くテーブルを広げてわたし達に昼食を作ってくれたり、お茶を出してくれたりしました。
 標高954メートルのシュールマク峠を越えると、ウブス・ヌール盆地(大部分はモンゴル領、北端のみトゥヴァ領、つまりロシア領)に出ます。この峠に、道路を作った労働者像の記念碑が建っていて、1938年と日付も彫ってあります。旅行案内書によると、この峠は1916年ロシア帝国の総督によって任命されたロシア寄りのトゥヴァ人の首長が、モンゴル寄りの前首長に暗殺されたところでもあるそうです。その当時のトゥヴァはロシア帝国の保護領になったばかりでしたが、それに反対する勢力(モンゴル派)も当然大きかったようです。

 峠を越えて、さらに南斜面を下ると、『鹿石』が立っているクルガン(古墳)が見えてきます。飛んでいるような鹿が何匹も打刻されたこのような『鹿石』は、トゥヴァには珍しいですが、モンゴル草原にはたくさん建っています。ですから、この『鹿石』を作った民族は、タンヌ・オラ山脈を北限として、ウブスヌール盆地などを含むモンゴル草原に住んでいたことになります。この民族はスキタイ人より古いと旅行案内書に書いてあります。
 『鹿石』を過ぎて国道54号線をさらに数キロ行ったところに、ぽつんと、ソ連時代の赤い星印の記念碑が立っています。革命後、内戦時の1921年、ここで白衛軍と赤軍パルチザンが戦ったという碑だそうです。敗北した白衛軍はモンゴルに逃げました。

 クィジールから215キロのエルジンが最後の村で、穴だらけでもアスファルト舗装道路もここまでです。ここで私たちは食糧を買い足し、ガソリンを満タンにしました。エルジン村から南東へ50キロほどの非舗装道路を行くと、モンゴルとの国境に出ます。昔、清朝中国やモンゴルからの代官が、この道を通ってトゥヴァを支配しに来ていたのでしょうか。
 私たちはエルジン村から南西へ砂地の中に車を走らせました。ここは最も北にある砂漠といわれています。植物が生えていないわけではありません。点々と背の高い草が生えています。上り坂では車が砂にはまってしまい動きません。車を軽くするため、わたし達は降りて、砂漠の草の間にあるわだちの跡をしばらく歩きました。
 そのうち、自然保護地域監視員という人が車で通りかかり、「ごみは家にもって帰ってくれよ。どこから来たのかね。ほう、日本!」と言って握手して去っていきました。
 トレ・ホレ湖

エルジン村からトレ・ホレ湖までは19キロです。
 トレ・ホレ湖も近くなった頃、半枯れの草草と砂地の中に、突然、高さ数十メートルほどの岩が見えてきました。ブヤンは
「ほら、オスタネツだ」と言います。オスタネツ(останец 残丘)というのは侵食から取り残されて突出している丘陵のことです。オスタネツは丘というより、絶え間なく侵食され続けて、縦横に裂け目が入った大岩です。ブヤンによると『わしの頭の形をしている』そうです。

 こうした巨大奇岩には土地の霊が宿っているのか、道しるべになるのか、岩の足元に色リボンを結び付けた竿『チャラマ』が立てかけてありました。この色リボンはもともと自分の衣服を裂いて結んだものでした。ですから、誰がこの道を通って行ったかということがわかるのです。
 ブヤンたちトゥヴァ人の男の子は身も軽く、あっという間に残丘(オスタネツ)の頂上まで駆け上りました。「野性的だなあ」と私は感心して下で眺めていました。
 
 トレ・ホレ湖は国境の湖で3分の1がモンゴル領となっています。湖の標高は1100メートルです。流れ込む川も流れ出る川もありませんが、淡水湖です。というのは、湖の底に湧水があるからです。
 湖に着くとすぐトゥヴァ人のスタッフたちはテントを建て始め、コックの女の子は料理を作り始めました。私たち旅行者は服を脱ぎ捨てて湖に入りました(水着なし)。周りには誰も居ません。バイカル湖のように透明で、バイカル湖ほど冷たくはありません。魚や、巻貝がいました。

 ここで素晴らしかったのは日没と星空でした。旅行会社『サヤン・リング』の回し者ではありませんが、トレ・ホレ湖の日没と星空はこの世のものとも思えないほど美しいです。クラスノヤルスクはスモックがあるので天の川は見えません。ここは、にぶく美しく光る銀河が見え、地平線ぎりぎりまで無数の星が見えるのです。寝るのが惜しくていつまでも起きていました。
 やっとテントに入って横になると、外に足音が聞こえ、夜行動物がうろついているのかと怖くて、(星空)トイレにも行けませんでした。風の音だったかもしれません。
 次の日は、湖で歯を磨いたり、顔を洗ったりしました。湖岸のあたりはもちろん村もなく、人も住んでいません。時々、家畜の放牧に牧童たちがやって来るでしょう。人影は見えませんでしたが、残念ながら、旅行者のごみだけは残っています。缶詰の空き缶やビン、ペットボトル、ビニール袋などが数メートルごとにかたまって置いてあります。家畜の糞があるのは仕方がありません。
 昔の首都サマガルタイ

 帰りは同じ道を通ります。エルジン村から50キロほど北へ、クィジールの方向へ戻ったところにあるサマガルタイ村(人口3000人余り)は、1763年から1911年までトゥヴァが中国清朝の属国だった頃の行政中心地でした。当時トゥヴァはモンゴルや中央アジアも征服した清朝中国の方を向いていたわけですから、首都が南のモンゴル国境近くにあったのもうなずけます。サマガルタイはトゥヴァとモンゴルや、トゥヴァと中国を結ぶ要だったわけです。でも、1911年にはトゥヴァはロシア帝国の保護国になり、首都は北のロシア国境に近く、ロシア人殖民村だったトゥランに(仮に)移り、その後1922年、ほぼ中央部の小エニセイ川と大エニセイ川の合流地点のクィジールが首都になりました(新築した)。
 150年間も清朝中国のトゥヴァ経営の常駐地、つまり、トゥヴァの首都だったサマガルタイにぜひとも寄りたいものだと、運転手に頼みました。遊牧民は記念的な建物は残さないので、サマガルタイはただの寂れた村にすぎないということですが、せっかく近くを通るのに寄ってみないと、また後で後悔します。また、いつ来れるかわからないではありませんか。私以外の旅行客の4人はそんなところは寄りたくない様子でしたが、それはロシア文化中心主義的だからです。ロシア人(ウクライナ人も)旅行客は、トゥヴァの歴史にあまり興味がないらしいのです。

サマガルタイ村のおじいさん
サマガルタイの仏教寺院
その内部
僧侶が占ってくれた
 ブヤン君たちは火を起こして羊肉を焼いたり、すばやくテントを張ったり、泥沼から車を引き出したりするのは上手ですが、旅行者に土地の由来や国の歴史を説明するのは苦手のようです。
 サマガルタイ村に入ると、そこは、確かに他の小さな村と変わりません。シベリアの田舎村にはどこにでもあるような第2次世界大戦戦没者碑が、村の目立つところにあります。それら記念碑はクラスノヤルスク地方などでは精悍なロシア人の若者を表しているのに、この像は、トゥヴァ人の顔つきでトゥヴァ服を着ているところが珍奇だと同行の旅行者が言っていました。ここへ寄りたいと言ったのが私である以上、何か見つけなければと思い、道行く村人に、
「昔の首都をしのばせるものはないでしょうか」と聞いてみました。3人目に聞いたおじいさんが、
「うーん」と考え込んでいました。
「20世紀の始めまで首都だったところに、何も残ってないなんて、そんなことがありうるかしら」と畳み掛けると、
「近くの山に、うちのおばあちゃんが隠した仏像があるはずだが、まだ見つけてはいないのですよ」と言っていました。さらに考えてから
「郊外に復興された仏教寺院(チベット仏教)がある」と教えてくれました。
 行ってみると、木造の寺院があり、深閑として人影もありません。やがて物音を聞いて出てきた普段着のおじさんがラマ僧だそうで、寺を開けてくれました。ロシア人観光客を車に待たせて、10分ぐらい見物するつもりでしたが、西モンゴルで修行をしたというラマ僧が長いお経を上げてくれたり、丁寧に相手をしてくれたり、同行のトゥヴァ人がみんな次々に寺院に入ってお参りしたため、1時間半も待たせることになってしまいました(ロシア人たち一神教徒は他の宗教に非寛容、トゥヴァ人はシャマニズム信仰か、チベット仏教徒)。
 この寺院は1773年創立です。トゥヴァでは最も古い寺院の1つで、ここから国内にチベット仏教が広がったそうです。事実、サマガルタイにはトゥヴァの仏教本山がありました(今はクィジール市にある)。
 特に頼んだわけではありませんが、私の健康を占ってくれました。西モンゴルで修行したというトゥヴァ人のラマ僧がトランプで占うというのも、この時は不釣合いな感じがしました。(しかし、トランプの起源はアジアだと言うから、本当は不釣り合いではない。ただキングとクイーンの西欧風絵柄は、不釣り合い)。私は心臓と胃が悪いという占い結果でした。私としてはラマ教とはどんな宗教か知りたかったのでいろいろ質問してみました。でも、ラマ僧の話すロシア語は半分ぐらいしかわからなかったので、結局ラマ教については、ここでは詳しいことはわかりませんでした。同行のトゥヴァ人(添乗員さんたち)が小額のお布施を祭壇前のお皿に載せていたので、わたしも、ちょっと多めに置きました。ラマ僧は、みんなにお香を一さじずつ紙に包んでくれ、モンゴルのお経の言葉を書いてくれました。後で『アイ』の部屋係のオユマーに聞いてみると『南無阿弥陀仏』のようなことらしいです。(追記、マントラ、真言、Ом ма-ни па дме хум オン・マニ・パドメー・フンだったようだ)

(後記: 『ラマ教』と言う言い方もするが、より正確には『チベット仏教』というそうだ。)

 クィジール市見物
 
 チベット寺院
 
 アジアの中心非
最後の日はクィジール市見学と買い物ということになっていました。1日早く来ていたモス
クワからのターニャ親子は去り、飛行機の都合でもう1日滞在するウクライナからの男女アントンとサーシャ、それに私は、アルチュールの車で20キロ離れたクィジール市に出発しました。アントンたちがお土産を買っている間、私は11時の博物館開館までの2時間くらい、新築の仏教寺院や『アジアの中心碑』、シャーマン・クリニックの見学をすることにしました。昼食は4人が合流してトゥヴァ料理を食べることになっていました。 

 由緒はあるけれど深閑として粗末な木造のサマガルタイの寺院と違って、1999年にできた首都の仏教寺院は石造りの立派なものです。僧衣を着たラマ僧や修行僧達、市民達も大勢出入りしています。ダライラマのスポークスマンの邸宅も寺院内にあります。
 ここでは、権威のあるラマ僧と話せますが、順番ができていました。トゥヴァ人は冠婚葬祭について相談があるのでしょうか。本物のチベット仏教について詳しく知りたかったのですが、順番が長そうなので止めました。

 『アジアの中心碑』はトゥヴァとクィジールのシンボルなので観光客は必ず訪れます。この大理石の碑は、20年ほど前に新たに建てられた3代目で、1代目は、19世紀にイギリスの探検家が25メートルほど川下に建てたそうです。
 シャーマン・クリニックは、有料でシャーマンが病気を治してくれます。シャーマンの力を信じないようなら頼まない方がいいとアルチュールが言いました。その通りで そのうち博物館の開館の時間になったのでガイドを頼んでゆっくり見学することにしました。そのガイドのオーリャがよほど私のことが気に入ったのか、普通は40分で一通り説明が終わるという博物館を3時間半もかけて説明してくれました。もしかしたら、展示物で中国渡来の石画に書いてある漢字の一部を私が訳したので、そのお礼だったかもしれません。日本人なら誰でも読める程度の漢字だけですが。(追記、2012年にもそのオーリャさんと会うことになった)

ユルタを張って牧畜
ユルタの骨組みと天井
 
 ユルタのおばあさんと孫達
 
 ユルタのお父さん
馬乳酒を造る
『アイ』のユルタで、ホメイ・コンサート
 
トゥヴァ人文大学の図書館で,男性はカザフ人 
 この3時間半もの、実物を前にした講義のおかげで、トゥヴァについてはかなり詳しくなりました。
 しかし、アントンたちと合流できず、私だけトゥヴァ料理レストランはパスすることになってしまいました。
 ユルタ訪問
 その帰り、『アイ』の近くの河岸段丘の本物のユルタを訪問しました。この家族は夏場、ここにユルタを張って牧畜をしているそうです。ユルタは2棟あって2家族が住んでいます。そばにアラカ(馬乳酒)を作る器具もありました。あまり清潔そうとは思えませんでしたが、そんなものです。
羊毛の糸を繰る
(ユルタのお母さん)
 ユルタの中は、『アイ』の私たち観光客用のユルタと違い、生活のにおいがします。乳を入れた容器からは乳の発酵するにおいがしますし、それにつられて無数の蠅が回りにたかっています。獣脂のにおいもきついです。
 でも、これは当然のことです。主人のお父さんと一緒に写真を撮ったり、お母さんに羊毛の糸を繰る方法を習ったりしました。見ていると簡単そうですが、自分がやってみると、繰り棒をまわしながら羊毛の束から糸を繰っていくのはなかなか難しいのです。私は不ぞろいな糸を数センチ繰り出せただけでした。

 この二家族で羊や牛を数百頭飼っているそうです。遊牧地は夏場と冬場があります。昔は解体したユルタや家財道具を荷車に積んで、家畜と一緒に移動しましたが、今は車で移動します。現代風遊牧民です。でも、もちろん家畜は馬で追います。
 トゥヴァ人文大学   
 出発の日は、トゥヴァ人文大学へ行き、トゥヴァ史やトゥヴァに関する本をたっぷり買い込みました。町の本屋ではこのような本は売っていません。図書館で新書や古本を売っているというのはロシアでは珍しくありません。日本から来たと言うと、館長のモングーシュさんは書庫から次々と本を出して机に並べてくれました。モングーシュさんと話が合ったせいか、ご自身編集の『トゥヴァ人文大学学位論文目録集』というのを贈呈してくれました。それにはカモガワカズコさんという日本人の研究者の方の『トゥヴァ人の民族文化の発展』という1986年の修士論文も載っていました。
 ちなみに、トゥヴァを旅行していて、日本から来たというと「5年前日本の考古学者がここに来た」とか「7年前、自分のタクシーに日本人女性テュルク語学者が乗った」とか「去年はうちのホテルに2組の日本人ツーリストが泊っていった」とか言われます。最近は、トゥヴァやモンゴルで有名なホメイ(喉歌)の勉強にやってくる音楽家や、家畜の大祭日ナーダムに訪れる観光客も多いそうです。
 後記
 
 
 7月のトゥヴァ旅行から帰って、8月にはザバイカル地方を回る機会がありました。2004年はエネルギッシュにロシア国内を旅行しました。というのは夏休みの終わりの9月初めに、8年間もいたクラスノヤルスクを引き上げる予定だったからです。

 9月3日、日本に戻りました。戻ってからも図書館のモングーシュさんや、ウクライナのアントンとは文通しています。
 その後、2008年、 2012年、 2013年 2014年2015年2016年とトゥヴァを訪れました。(後記:2012年には国立博物館のオーリャさん(オリガ・モングーシ Oльга Оюнзаевна Монгуш)とも再会した。

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